両軍の陣容
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「マルタ包囲戦 (1565年)」の記事における「両軍の陣容」の解説
1565年3月下旬、オスマン帝国の艦隊がイスタンブールを出撃した。包囲戦で最も早く戦記を残した騎士ジャコモ・ボジオは、オスマン艦隊がガレー131隻、小型ガレー7隻、大型ガレー4隻、その他輸送船舶も含めて計193隻から構成されていたと記録している。 騎士団がフェリペ二世へ送った報告ではガレー130隻、小型ガレオン船30隻、大型帆船10隻、その他凡そ200隻前後のカラムサル船(武装商船、私掠船)からなり、2ヶ月後にガレー船41隻とフスタ船3隻が増援したと記している。 同時期にシチリア副王、ビリャフランカ・デル・ビエルソ侯ガルシア・アルバレス・デ・トレド・イ・オソリオ(トスカーナ大公妃エレオノーラの実兄)の書簡も上記と似かよった船舶数を記していた。なお、騎士団のガレーの漕ぎ手にムスリム奴隷が使われているのは重労働のためであり、同じくオスマン側のガレーではキリスト教徒の奴隷が漕ぎ手に使われていた。 イタリア系スペイン人傭兵フランシスコ・バルビ・ディ・コルレッジョの有名な包囲戦日記から、双方の軍構成が伝えられている。 マルタ騎士団オスマン帝国軍マルタ騎士団500人 騎兵隊(スィパーヒー)8,000人 スペイン兵400人 イェニチェリ6,000人 イタリア兵800人 バルカン、アフリカ、アナトリア兵20,000人 ガレー船乗組の水兵500人 シリア、イラク兵4,000人 ギリシャおよびシチリア兵200人 領主義勇兵3,000人 聖エルモ砦守備隊100人 農兵5,000人 騎士たちの従僕100人 ルーマニア近衛兵1,200人 ガレー船の漕手としてムスリム奴隷500人 トリポリ、アルジェよりの増援部隊 マルタ島住民の中から動員された義勇兵3,000人 カラマニア騎士団 ミュティレネ兵 ネグロポンテ騎士団等 合計: 6,100人、実際は首都だけで10,000人強が篭城 合計: 合計は48,000人、うち約半分がアジア出身者 また根拠が曖昧であるが、騎士イポリト・サンスも、オスマン軍の数についておよそ48,000人という数字を載せている。同時代の作家らはもっと少ない。包囲戦が始まった4日後にフェリペ2世が書いた手紙には、「上陸した兵士の数は、15,000人から16,000人の間、それには700人かそれ以上の火縄銃の射手、400人のイェニチェリ、300人のスィパーヒーが含まれている」との報告を受けたとある。一方で、包囲戦の一ヶ月後にドイツの修道院長へ宛てて書いた手紙には、篭城する都市から「このオスマン艦隊は250隻の船、三段櫂ガレー、二段櫂ガレー、その他船舶から構成されている。最も近い概算では、敵軍の戦闘員は40,000人と計算することができる」と書いていた 。 包囲戦の間でもシチリアとの連絡は保たれ、書簡のやり取りは絶えずあったが、騎士団の私掠船長ヴィンチェンツォ・アナスタージは敵軍はたった22,000人だと申し立てている。当時のその他のいくつかの手紙では同じような数が挙げられていた。しかし、ボジオが合計でおよそ30,000人という数字を推測したことは、コルレッジョの記録にある名前が付けられた軍隊の人数と矛盾しないと思われる。その他の初期の記録は、ボジオ、コルレッジョの概算と似た数字を残している 。 16世紀のガレーの容量を考えると、通常は兵士の乗り込みは70人から150人の間とされた。アナスタージはシチリア福王に宛てた書簡で、少ない人数であってもできるだけ早く救援を送るよう説いていた。オスマン軍の兵力についてはオスマン側に記録がなく、キリスト教側の資料も数字が分かれ、真実の数字を知ることはもはやできないだろうが、約30,000人程度というところで歴史家の意見は一致している(この他に約6,000人の海賊が加わっていたと推測されている)。 防衛側の人数においては、コルレッジョの出した数は明らかに少ない。島には、騎士・兵士3000人、民兵10,000人、奴隷500人が居たが、民兵の多くは武器の扱い方に慣れない人々であった。
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両軍の陣容
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武田軍 武田勢 兵数 2500秋山虎繁 望月信永 原藤吾昌定 芝山主水且春 松本右京亮長継 遠山・徳川軍 美濃勢 兵数 2500明知遠山氏(明知城)、遠山景行(自刃)、遠山景玄(討死)、門野磯之助氏幸(討死)、門野高四郎繁氏(討死)、門野覚八氏益(討死)、多羅子宮内義正(討死)、小泉義左衛門(討死)、田代弾正(討死) 串原遠山氏(串原城)、遠山右馬助(討死)、遠山五郎教景、渡邊新左衛門(討死)、堀勝筑 苗木遠山氏(苗木城)、遠山友勝 飯羽間遠山氏(飯羽間城)、遠山友忠 阿木遠山氏(阿木城) 吉村氏(千旦林城)、吉村源蔵(討死) 小里氏(小里城)、小里光忠、小里内記(討死) 平井氏(高山城)、平井宮内小輔光行(討死) 『寛永諸家系図伝』によれば、この合戦に参加した遠山荘の遠山氏勢には、遠山景行、小里光次、飯羽間の遠山友信が記されている。 山家三方衆・三河衆 兵数 2500奥平定能(作手城) 奥平信昌九八郎(菱鹿野) 戸田加賀守(名倉寺脇城) 鈴木重直父子(足助城) 川手良則(武節) 菅沼定忠 (田峰城) 菅沼正貞 (長篠城)
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