両軍の陣容とは? わかりやすく解説

両軍の陣容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:10 UTC 版)

マルタ包囲戦 (1565年)」の記事における「両軍の陣容」の解説

1565年3月下旬オスマン帝国艦隊イスタンブール出撃した。包囲戦で最も早く戦記残した騎士ジャコモ・ボジオは、オスマン艦隊ガレー131隻、小型ガレー7隻、大型ガレー4隻、その他輸送船舶も含めて193隻から構成されていたと記録している。 騎士団フェリペ二世送った報告ではガレー130隻、小型ガレオン船30隻、大型帆船10隻、その他凡そ200前後カラムサル船(武装商船私掠船からなり2ヶ月後ガレー船41隻とフスタ船3隻が増援したと記している。 同時期にシチリア副王ビリャフランカ・デル・ビエルソ侯ガルシア・アルバレス・デ・トレド・イ・オソリオ(トスカーナ大公妃エレオノーラ実兄)の書簡上記と似かよった船舶数を記していた。なお、騎士団ガレー漕ぎ手ムスリム奴隷使われているのは重労働のためであり、同じくオスマン側のガレーではキリスト教徒奴隷漕ぎ手使われていた。 イタリア系スペイン人傭兵フランシスコ・バルビ・ディ・コルレッジョの有名な包囲戦日記から、双方の軍構成伝えられている。 マルタ騎士団オスマン帝国軍マルタ騎士団500騎兵隊スィパーヒー)8,000スペイン400イェニチェリ6,000イタリア800バルカンアフリカアナトリア20,000ガレー船乗組の水兵500シリアイラク兵4,000ギリシャおよびシチリア200領主義勇兵3,000聖エルモ砦守備隊100農兵5,000騎士たちの従僕100ルーマニア近衛兵1,200ガレー船漕手としてムスリム奴隷500トリポリアルジェよりの増援部隊 マルタ島住民の中から動員され義勇兵3,000人 カラマニア騎士団 ミュティレネネグロポンテ騎士団合計: 6,100人、実際首都だけで10,000人強が篭城 合計: 合計48,000人、うち約半分アジア出身者 また根拠曖昧であるが、騎士イポリト・サンスも、オスマン軍の数についておよそ48,000人という数字載せている。同時代作家らはもっと少ない。包囲戦始まった4日後にフェリペ2世書いた手紙には、「上陸した兵士の数は、15,000人から16,000人の間、それには700人かそれ以上火縄銃射手400人のイェニチェリ300人のスィパーヒー含まれている」との報告受けたとある。一方で包囲戦一ヶ月後にドイツ修道院長宛てて書いた手紙には、篭城する都市から「このオスマン艦隊250隻の船、三段ガレー二段ガレー、その他船舶から構成されている。最も近い概算では、敵軍戦闘員40,000人と計算することができる」と書いていた 。 包囲戦の間でもシチリアとの連絡保たれ書簡やり取り絶えずあったが、騎士団私掠船長ヴィンチェンツォ・アナスタージは敵軍はたった22,000人だと申し立てている。当時その他のいくつかの手紙では同じような数が挙げられていた。しかし、ボジオが合計でおよそ30,000人という数字推測したことは、コルレッジョの記録にある名前が付けられ軍隊人数矛盾しない思われるその他の初期の記録は、ボジオ、コルレッジョの概算似た数字残している 。 16世紀ガレー容量考えると、通常兵士乗り込み70人から150人の間とされた。アナスタージはシチリア福王宛てた書簡で、少な人数であってもできるだけ早く救援を送るよう説いていた。オスマン軍兵力についてオスマン側に記録がなく、キリスト教側の資料数字分かれ真実数字を知ることはもはやできないだろうが、約30,000程度というところで歴史家の意見一致している(この他に約6,000人の海賊加わっていたと推測されている)。 防衛側人数においては、コルレッジョの出した数は明らかに少ない。島には、騎士兵士3000人、民兵10,000人、奴隷500人が居たが、民兵多く武器扱い方慣れない人々であった

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両軍の陣容

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上村合戦」の記事における「両軍の陣容」の解説

武田軍 武田勢 兵数 2500秋山虎繁 望月信永藤吾昌定 芝山主水且春 松本右京亮長継 遠山徳川軍 美濃兵数 2500明知遠山氏(明知城)、遠山景行自刃)、遠山景玄(討死)、門野磯之助氏幸(討死)、門野四郎繁氏(討死)、門野覚八氏益(討死)、多羅子宮内義正(討死)、小泉義左衛門討死)、田代弾正討死串原遠山氏串原城)、遠山右馬助討死)、遠山五郎教景、渡邊新左衛門討死)、堀勝筑 苗木遠山氏苗木城)、遠山友勝 飯羽間遠山氏飯羽間城)、遠山友忠 阿木遠山氏阿木城吉村氏(千旦林城)、吉村源蔵討死小里氏(小里城)、小里光忠小里内記討死平井氏(高山城)、平井宮内小輔光行討死) 『寛永諸家系図伝によれば、この合戦参加した遠山荘遠山氏勢には、遠山景行小里光次飯羽間遠山友信が記されている。 山家三方衆三河衆 兵数 2500奥平定能(作手城) 奥平信昌八郎鹿野戸田加賀守名倉寺脇城) 鈴木重直父子足助城川手良則(武節) 菅沼定忠 (田峰城) 菅沼正貞 (長篠城)

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