両軍の集結
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フランス軍がベレスフォードの前に退却を余儀なくされたときから、スールトはバダホスの危機を認識し、冬季戦役における目に見える成果の一つを失わないよう決断した。5月9日までに、スールトは時間が無くなりつつあると感じ、カディスの包囲と他のアンダルシア地方の支配を捨てて、南方軍所属の第1軍団(英語版)と第4軍団(英語版)の全兵力でバダホスへ出発した。アンダルシアとの境でラトゥール=モブール率いる第5軍団と合流し、兵約23,000とカノン砲35門の軍勢でバダホスへ向かった。スールトは連合軍に比べ戦力が劣っていたが、兵士の質で補えるものと期待していた。 ベレスフォードは、5月12日にセビリアのスペイン人愛国者から受け取ったスールトの出発を伝える報告で、フランス軍の前進に警戒態勢についた。ベレスフォードは同日昼にフランス軍指揮官への降伏勧告を送り拒絶されるといった、バダホス包囲のふりを続けていたが、もはや攻略する時間はないと認め、攻城砲や物資の退却を命じた。5月13日、コルボーンの旅団に配属されていたスペイン軍騎兵がフランス軍と遭遇し、4月にウェリントンから受けた命令に従い、ベレスフォードへスールトの現在位置を知らせる一方で後退した。同日後刻、ロングのイギリス軍騎兵も進軍中のフランス軍と遭遇したが、ロングもまた、交戦するなというウェリントンの命令に従い、急いで後退した。ベレスフォードはロングの後退は多少時期尚早であり、フランス軍に部隊展開させることで進軍を遅らせることができたかもしれないと考えた。 同じく13日にベレスフォードは、イギリス第2師団(英語版)と、ジョン・ハミルトン(英語版)少将配下のポルトガル師団と3個砲兵中隊をバダホスから、スールトの3つの進路を監視するのに理想的な地点であるバルベルデへ移動させた。ウェリントンの命令はベレスフォードにスールトと戦うか退却するか選択を完全に委ねるもので、ベレスフォード自身は退却を選ぶつもりであった。しかし5月14日にバルベルデでスペイン軍の最上位の2人の将軍、ブラケとカスターニョスに会うと、連合軍はスールト軍を兵力で上回っており戦いを挑むのが正しいと説得されるがままになった。それを受けて、連合軍の指揮官たちは、バダホス救援に向かうフランス軍に対峙するのに適するとしてウェリントンが選んだ地点、アルブエラに集結することに合意した。 5月15日までには、スールトが、サンタ・マルタ(英語版)とアルブエラを通過する、バダホスへの中央の道を通ることがベレスフォードに明らかになった。ベレスフォードはさらに部隊配置を変え、第2師団とハミルトンのポルトガル兵をアルブエラの守備に向かわせ、そこでアルテンのKGL(英語版)大隊および、戦役のため臨時編成された守備隊と軽装部隊からなる別のポルトガル大隊と合流した。スールトの行動は、フランス軍の猟騎兵とユサールがロングの騎兵とサンタ・マルタで交戦したことでより明らかになった。そして、ロングは再度、ベレスフォードが理解不能と考えた早急さで退却した。ウィリアム・ラムレイ(英語版)少将がロングと交代し、連合軍騎兵部隊の指揮官に就いた。この理由は記録によって様々であり、ロングの無能力を理由としたものや、単にラムレイの指揮順位が上であることを理由としたものがあった。ベレスフォードが決断した直接の理由は、ロング自身が、ラムレイの任命により、ロングとスペイン軍の騎兵指揮官との間で起こった指揮順位の問題が解決されると示唆していたことであるとみられる。ラムレイは16日朝まで戦場に到着せず、それまで実際には指揮変更は行われなかった。 その日はもう戦闘がなく、ベレスフォードは部隊配置を完了させた。連合軍の前面には南から北へ流れる複数の小川があり、それらのうちノガレス(Nogales)川(フェリア(Feria)川とも呼ばれる)とチカピエルナ(Chicapierna)川が村の南で合流してアルブエラ川となっていたが、特段障害になるものではなく、2つの橋と浅瀬1ヶ所で渡河することができた。アルテンの兵がアルブエラに、大半のポルトガル騎兵を伴ったハミルトンの師団がアルブエラから北にかけて連合軍の左翼を形成し、ウィリアム・ステュワート(英語版)少将の第2師団がアルブエラ西方の丘に布陣した。右翼は、カスターニョスとブラケ率いるスペイン軍4個師団が布陣する予定であり、第4師団に加えて騎兵と砲兵が強力な戦略予備となった。チカピエルナ川とアルブエラ川の西側は、南北方向に伸びる木が生えていない低い尾根に向かって登りになっており、南に向けて徐々に高くなっている数個の小山があった。戦いの後、ベレスフォードは、これらのうちアルブエラの南西約1マイルにある小山とその約500ヤード南にある小山の確保に失敗したことを厳しく批判された。 ブラケの師団は接近が遅れ、5月15-16日の真夜中近くにやっと到着したが、そこは翌朝の戦闘開始時に都合が良い地点であった。一方、ローリー・コール(英語版)の第4師団とデ・エスパーニャのスペイン軍旅団は5月16日早くにはバダホスからアルブエラへ行軍中であった。 一方、スールトも作戦を立てていた。彼はブラケがベレスフォードと合流しようとしていることを認識していたが、スペイン軍の到着にはまだ数日かかると考えていた。スールトはその誤った前提に基づいて、連合軍の南側へ向かい、彼らを分断するようくさびを打ち込むことが最善手であると考えた。スールトは、ベレスフォード軍を撃破した後に南へ向かいブラケの師団と戦うことで、敵を徹底的に打ち破ることができるものと期待していた。
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両軍の集結
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「スタンウィックス砦包囲戦」の記事における「両軍の集結」の解説
1777年4月、大陸軍のフィリップ・スカイラー少将が、ピーター・ガンズヴォート大佐の指揮下にあるニューヨーク第3連隊に、ケベックからのイギリス軍とインディアンによる侵略に対して、守備隊として砦に入り、その修復を行うよう命令を出した。ガンズヴォートの部隊は5月に砦に入り、即座に防御工作を始めた。このとき砦を公式に「スカイラー砦」と名付けたが、元のスタンウィックス砦という名前で広く認識されていた。友好的なオナイダ族インディアンから、イギリス軍がモホーク川流域への侵攻を計画しているという情報が入り、そのことが7月半ばまでに確認されて、工事の進行に拍車が掛けられた。7月初旬、ガンズヴォートは状況をスカイラーに報告し、物資や弾薬が不足していることを伝えていた。スカイラーは7月8日に補給物資を砦に送るよう命令した。 バリー・セントリージャーはこの遠征のために准将に名誉昇進しており、イギリス正規軍の第8、および第34歩兵連隊、多くの砲兵隊員、ヘッセ=ハナーウの猟兵80名、ニューヨーク王室連隊のロイヤリスト350名、バトラーズ・レンジャーズの1個中隊、および約100名のカナダ人労働者を集めた。大砲は6ポンド砲2門、3ポンド砲3門、および小さな迫撃砲4門だった。6月23日にモントリオール近くのラシーンを出発するときに得ていた情報は、砦に約60名の守備隊が居るだけであり、セントリージャーはこれだけの部隊であれば、荒廃した砦を落とすのに適当だと考えた。 セントリージャーは、砦の守備隊から捕まえた捕虜がセントローレンス川に連れてこられたときに、大陸軍がスタンウィックス砦を占領したことを知った。さらにその捕虜から、砦が修復され、「600名以上の守備隊がおり、...イギリス軍が来ることを予測しており、その勢力と経路も知っている」ことを聞いた。遠征隊に同行していたインディアン代理人ダニエル・クラウスがセントリージャーに、オスウェゴに行って1隊のインディアンを徴兵することを勧めた。7月14日にはオスウェゴに到着し、ジョセフ・ブラントと800人のインディアンが遠征隊に加わった。これは主にモホーク族とセネカ族の者達だったが、イロコイ連邦の他の部族の者や五大湖地方のインディアンも入っていた。イロコイ連邦のうち、オナイダ族とタスカローラ族はこのときも中立を宣言しており、加わらなかった。 オスウェゴを出発した後で、セントリージャーのもとに砦に多くの物資が運び込まれつつあるという情報が入った。セントリージャーは即座にブラントと200名のインディアンおよび30名の正規兵を派遣し、その物資を横取りして砦の包囲を始めるよう命じた。ブラントの部隊は8月2日に砦に到着したが既に遅かった。マサチューセッツ第9連隊の200名が護衛する輜重隊が既に到着し、荷を卸していた。ブラント隊は輜重隊の船の船長を捕まえることができた。マサチューセッツ連隊の兵士は砦に留まった。セントリージャーの主力部隊が翌日到着した。ただし、大砲が到着するにはさらに数日を要した。
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