工事の進行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:29 UTC 版)
1878年(明治11年)、後に仙台市長となる内務省土木寮(土木局)の官吏、早川智寛が、野蒜築港内務省土木局出張所(宮城県牡鹿郡蛇田村高屋敷)主任として着任した。 工事は先ず、同年7月の北上運河開削に始まり、日本で初めて蒸気浚渫船が使用された。同11月には鳴瀬川河口で新鳴瀬川の開削に着工し、翌1879年(明治12年)7月には野蒜港口で突堤の築造が始まって粗朶沈床の枠組みの中に石を詰めて堤とした。港口の東西にそれぞれ長さ272mと236mの突堤を築く計画だったが、波浪により再三破壊され、予定より規模を縮小して1882年(明治15年)10月31日に落成式が行なわれた。なお設計者のドールンは1880年(明治13年)にオランダに帰国し、1881年(明治14年)1月には北上運河の開通式が行なわれ、1882年12月に新鳴瀬川が完成している。 突堤の完成によって築港は一応完成したが、一方で予想以上に漂砂が激しく、内港出口や松島湾との間の椿湾海峡(北緯38度21分34.4秒 東経141度9分10.9秒 / 北緯38.359556度 東経141.153028度 / 38.359556; 141.153028 (椿湾海峡 … 漂砂により陸地化))での操船に支障をきたした。このため、当初は予定になかった東名運河の開削が1883年(明治16年)から始まり、翌1884年(明治17年)に開通した。なお、これらの工事に際しては技師や東北各県から募集された人夫の他、西南戦争で敗れて国事犯となった鹿児島の士族も数多くいた。
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