工事の進捗状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 09:55 UTC 版)
動力を電化して従来の馬車鉄道を電気鉄道とするため、愛知馬車鉄道は1910年(明治43年)12月15日付で尾張電気軌道に社名変更した。 尾張電気軌道株式会社では、1911年8月から軌道敷設工事に先行して軌道敷の用地買収を開始した。しかし、名古屋市東区春庵町(現・千早交差点)より愛知郡八事山に達する同社専用道路(八間幅)に要する軌道敷の買収交渉に手間取り、最後は大島千種町長の斡旋によってようやく解決して、同年11月20日から本格工事に着手した。 「新愛知新聞 明治45年1月25日号」によると、『千種区町瓦前より八事八勝館東に至るべき約四哩の土工は、高倉組の受負にて、客年十一月二十日より着手し、中央なる御器所村広路字安田より両端へ向け八間幅の土工を施し、既に七分通り竣成せしを以て、多分明日位より右竣成箇所に対し、軌道引延工事を施行せらるべく、何分千種町付近の地は家屋の移転を要するものあり。土工の進捗著しからずと雖も是等に八間道路に複線軌道の竣成すべきは予定期日なる三月十五日を遅るるとはあらざるべし』とある。 この敷設工事において、軌道を通す予定であった川名集落の飯田街道は道幅が狭く、町屋が建て込んでいたため、尾張電気軌道では飯田街道の北側に並行して、新たに八間幅の新道安田通を開削した。 また、使用する車両12両は「名古屋電車製作所」に製作を依頼し、運転手・車掌の募集には100名の応募があったため、1912年1月に名古屋および岐阜で試験を行った上で、約30名を選考して、大阪市電や箕面有馬電気軌道へ養成を委託した。 ※「鉄道車両の製造メーカー一覧」を参照 なお、路面電車の電源について、一部の資料では安田通の本社内に自前の火力発電所を設けたという記述があるが、名古屋電燈株式会社より600kWの電力供給を受けていた。「中部地方電気事業史」によると、『名古屋電燈は名古屋電力との合併によって継承した八百津発電所(建設当時の名称は木曽川発電所、現・旧八百津発電所資料館)の完成などにより、十分な供給能力を備えるに至っていた。そのため、明治40年代初めには瀬戸電気鉄道など数社への供給に限られていた電力供給は、明治43年末に名古屋電気鉄道などと供給契約したのをはじめ、順次大口の需要家との契約が増加した。具体的には、明治44年2月に愛知織物、3月に帝国撚糸、12月に名古屋電気鉄道、明治45年2月に愛知電気鉄道、3月に岐阜電気、6月に日本車輌製造、大正元年10月に尾北電気などとの契約が締結されたほか、尾張電気軌道、愛知セメント、犬山電燈、一宮電気、稲沢電気、知多瓦斯、三重紡績などへ電力が供給された。』と記されている。
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