仙台市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 13:58 UTC 版)
仙台市では1930年6月、当時の市長・山口龍之助が宮城県土木課長時代の土木疑獄事件の発覚により辞職した。その後の仙台市長選挙に渋谷は立候補、同年8月の市会(市議会)投票で14票を獲得し、13票だった元市長・鹿又武三郎を一票差で下して当選した。しかし、この選挙では山口派と鹿又派が多数派工作のために激しく対立、市会で過半数の支持を獲得できなかった山口は、市長当選後にも困難な市政運営を強いられ、就任後のしばらくは反山口派の妨害によって市役所登庁すらままならなかったほどであった。 仙台市長となった渋谷は、教育行政に手腕を発揮し、1934年、1938年の選挙でも再選された。1936年から1941年までのあいだには、教育機関「仙台市教育研究所」を仙台市役所内に設置、地域独自の子供教育を行うことを目指した。また、在任中に渋谷は、町村合併や工場誘致、ガス事業とバス事業の市営移管に成功した。 渋谷市政3期目の末期、市会では渋谷派と反渋谷派の対立が激しくなった。1942年8月、3期目の任期切れが迫ると、市会各派の代表らは、4選に意力をみせていた渋谷に対して、「市会の対立や市長の決選投票は好ましくない」と説得、渋谷は「大仙台建設の継承者を後継にすること」を条件に、再選立候補を断念した。 戦後、公職追放となった。
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