両軍司令官の統帥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 04:24 UTC 版)
木村兵太郎方面軍司令官は当初、田中参謀長を信任していた。しかしイラワジ会戦が敗勢になるにつれ田中参謀長を信頼しなくなり、自らがリーダーシップをとるようになった。司令官と参謀長のギクシャクした関係はのちのラングーン放棄にも尾を引いている。 スリムは木村を「非常に高度な現実主義と道徳的勇気を持っている指揮官」と評し、英軍に有利なシュエボで決戦しなかった、メイクテーラ危機を感じるや速やかに同方面に傾注したと称賛している。シュエボでの遅滞行動は田中参謀長の指導によるものであったが、2月以降の作戦指導は木村司令官自身によるものであり、第15軍の要求するメイクテーラ戦移行も田中参謀長の反対を排して木村が決断したものである。 一方のウィリアム・スリム軍司令官は、在ビルマのイギリス軍を立て直し日本軍を叩きつぶしたとして第2次大戦における偉大な将軍の一人といわれている。イラワジ会戦においては、ニャングへの奇襲的渡河によって日本軍の作戦を根底から覆し大戦果を得た。エドワード・ヤングは『孫子』の「およそ、戦いは正をもって合い、奇をもって勝つ」を引用して、木村将軍はマンダレーへの攻撃(正)を予期し、スリムもこれを行ったが、メイクテーラへの攻撃(奇)は予期せぬものであった。奇をともなう正の使用によってスリムは木村を屈服させたと述べている。
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