両軍激突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:00 UTC 版)
シュルーズベリーは7月17日にフランス側の陣地に近づいたが、それは1300人の騎乗兵からなる前衛部隊を伴った彼の軍隊の主力が到着する前であった。彼はフランスの野営地の前の森で、同程度の規模のフランス側の自由射手(francs archers(フランザルシェ)、弓の訓練をする代わりに租税を免除(franc)された自由民、民兵)からなる部隊を撃破しており、自兵の士気を大いに向上させていた。 最初の小競り合いから数時間後、カスティヨンの町からの伝令がシュルーズベリーの休憩中の軍隊(彼らは夜を徹して行軍してきていた)に、フランス軍は総退却し数百もの騎兵が要塞を捨てて逃げ出したと報告してきた。町の城壁の辺りから、粉塵がもうもうと巻き上がって遠ざかっているのが見えた。しかし逃げ出したのは来たるべき戦闘の前に陣地を去るように命じられた非戦闘員従軍者(商人・洗濯婦・売春婦)でしかなかった。 シュルーズベリーはすぐさま配下の兵士たちを再編成すると、フランス軍の陣地に向けて進撃したが、完全武装した数千の弓兵と数百の砲門によって防御されている堡塁を目の当たりにした。驚きはしたもののシュルーズベリーは怯まず、フランス軍に対して突撃の合図を出した。シュルーズベリーはこの戦闘には直接参加できなかったが、彼は直前の戦いで捕虜になっており、捕虜宣誓(釈放後も一定期間戦線に立たぬことを誓って解放される)をして仮釈放されており、武器をとってフランス人と戦うことができなかったのである。 イングランドの軍隊はフランスの陣地に突撃したが、塹壕を越えても雨霰と降って来る矢や太矢(石弓の矢)、猛烈な臼砲や大砲や小火器の攻撃を喰らった。集中砲火が行えた理由は塹壕のおかげであるが、偶然かつての小河川の河床を利用していたので、稜堡を備えた防御陣の外見になっていた。 一旦戦闘が始まると、シュルーズベリーは主だった召使からなる何人かの兵隊の増援を受け取ったが、1時間後、ブルターニュ公ピエール2世により派遣されたブルターニュ軍の騎兵が到着し、イングランド軍の右側面を衝いた。イングランド軍は敗走しすぐにフランス軍の主力によって追撃され、シュルーズベリーは息子のリール子爵ジョン・タルボットと共に戦死した。 この大潰走の最中、シュルーズベリーの馬は大砲の砲弾によって殺され、その馬の下敷きになった。ある自由射手が、彼がシュルーズベリーであることに気づき、手斧で彼を殺すまでその状態であった。
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