両軍の陣形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:05 UTC 版)
7月8日の朝、戦いが始まった。ロジャーズ・レンジャーズと、大佐のトマス・ゲイジの第80軽歩兵連隊(英語版)が、砦に留まっていた数人のフランスの斥候を、塹壕の陰に追い詰めた。この軽歩兵隊の後ろには、ニューヨークとマサチューセッツ湾の植民地兵が控えており、3列縦隊での攻撃のため、正規兵が植民地兵の間を進んで行った。右翼の第27隊と第60隊は、第27隊の指揮官である中佐のウィリアム・ハヴィランドの指揮下にあり、中央の第44隊と第55隊の指揮を執るのは、中佐のジョン・ドナルドソン、そして左翼の第42隊と第46隊は、第42隊の中佐フランシス・グラントのもとにあった。それぞれの縦列の先導は連隊の軽歩兵中隊で、予備にコネチカットとニュージャージーの植民地兵が控えていた。 モンカルムはフランス軍を3つの旅団と予備とに分けた。彼は、塹壕に沿った部分の中央でロワイヤル・ルーション連隊(英語版)とベリー連隊(英語版)の指揮を執り、レビは右翼でベアルヌ連隊(英語版)とギュイエンヌ連隊(英語版)、そしてラ・レーヌ連隊(英語版)の指揮を執った。そしてブールラマクは左翼で、ラ・サル連隊(英語版)と、ラ・サル連隊(英語版)の指揮を執った。それぞれの隊が塹壕からざっと100ヤード(91メートル)の距離で防御についていた。砦の大砲が、塹壕の側面を守っていたが、右翼の方は不完全だった。左翼とラ・シュート川の間の低い土地は、民兵と海兵隊とが守っていた。彼らもまた、カリヨン防御のために逆茂木を作ったのだった。予備軍は、カリヨン砦の中か、砦とホープ山の間にいた。それぞれの隊にも予備軍が散らばっており、必要な時には援軍に行く構えだった。
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