プロホロフカの戦い
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プロホロフカの戦い(英語Battle of Prokhorovka)とは第二次世界大戦の東部戦線(独ソ戦)で、1943年7月に行われたクルスクの戦い(ドイツの作戦計画ツィタデレ作戦)のなかの、7月12日にクルスク南東87kmにあるプロホロフカで起きた、独ソ両軍による史上最大の戦車戦の一つ(1941年のブロディ戦車戦が第二次大戦中最大の戦車戦とされる)[要出典]。ツィタデレ作戦は、ソ連軍突出部を南北から挟撃する攻勢案であるが、ここで衝突したのは南からの攻勢部隊のひとつであるドイツ第4装甲軍の第2SS装甲軍団と、その進撃を阻止すべく反撃に出たソ連軍第5親衛戦車軍。戦闘は夕刻に終わり、戦場はドイツ軍の手に残った。しかし、同じ12日に急変したシチリア情勢に対応するため、ヒトラーがツィタデレ作戦の中止を決めた為、この戦闘の結果をドイツ軍は活かすことはできなかった。
- 1 プロホロフカの戦いとは
- 2 プロホロフカの戦いの概要
- 3 背景
- 4 戦闘
- 5 結果
プロホロフカ戦車戦
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「クルスクの戦い」の記事における「プロホロフカ戦車戦」の解説
詳細は「プロホロフカの戦い」を参照 プロホロフカにはクルスクとベルゴロドを結ぶ鉄道路線があり、さらに北西部にプショール川が流れ地形も広大な草原であった。このプショール川と鉄道に阻まれた狭い地域で、7月12日、プロホロフカ占領を目指す第2SS装甲軍団のLSSAH師団と、第2SS装甲軍団を撃破し第48装甲軍団の後方遮断を意図する第5親衛戦車軍とで戦車戦が開始された。 12日早朝、252.2高地から前進するLSSAH戦車戦闘団とソ連第53機械化旅団とが遭遇、戦車戦が始まった。これを皮切りに、次々とLSSAH師団の前線に戦車部隊の飽和攻撃を繰り返し、LSSAH師団は前進を中止し防御戦闘への移行を余儀なくされた。当時の戦闘記録によると、タンクデサントを満載したT-34の集団が自ら築いた対戦車壕を前に進攻が停止し、これを飛び越えようとして転落して行動不能になる戦車部隊も中にはあった。LSSAHの防御線を突破した赤軍部隊も全て撃退された。「我々より10倍もの敵戦車部隊との戦闘は、これまで経験が無かった。」(第7戦車中隊長ティーマンSS大尉)と言う程の激戦だった。 13日のLSSAH師団報告によると、ソ連軍戦車192輌を撃破した。こうしたソ連側の被害は、第5親衛戦車軍司令官パーヴェル・ロトミストロフがティーガー対策に近接戦闘を指示したため、砲塔に増加装甲を装備したIV号戦車をティーガーと誤認して接近し、逆にドイツ軍の75mm砲が有効な距離で撃破されていった結果でもあった。LSSAH師団の損害は24輌(全損車はIV号戦車:4輌、ティーガー:1輌)。14日には稼動88輌に回復した。第IISS装甲軍団全体の損害もLSSAH師団24輌、DR師団16輌、T師団20輌、計60輌(全損5輌、修理可能な損傷車輌55輌)と、過去言われていたデータとは比較にならないほど小さかった。第5親衛戦車軍は「16日までにT-34:222輌、T-70:89輌、チャーチル:12輌、SU:11輌全損」と報告した。ちなみにソ連の戦史ではティーガー撃破とよく出てくるが、この時稼動していた本物のティーガーは、LSSAH戦車連隊第13中隊の僅か4輌にすぎない。 これまでこの戦闘に参加した戦車数はドイツ軍600両、赤軍900両にも及び両軍の損害合わせると700両に及ぶ損耗戦だったと言われてきた。これは1981年までSSの記録が機密扱いだったため、両軍の参加した車両や構成、損害数などは資料によって、またはドイツ・ソ連から公開される不完全な資料で食い違いがあった。さらに崩壊前のソ連はプロパガンダとしてこの戦いを劇的に脚色して発表していたため、正確な情報が曖昧な状態になっている。
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