イスクラ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 15:32 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動イスクラ作戦 | |
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![]() 1942年5月~43年1月までのレニングラード周辺状態 |
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戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
年月日:1943年1月12日~1月30日 | |
場所:ラドガ湖南沿岸、ネヴァ川東岸とヴォルホフ川西岸の間 | |
結果:ソビエト連邦軍の部分的勝利、ドイツ軍の戦略的勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
不明 | 302,800 |
損害 | |
戦死、13,000捕虜1,250 | 戦死、行方不明33,940 負傷、戦病81,142 |
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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2017年12月)
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イスクラ作戦(露: Операция Искра、英: Operation Spark、日本語の意味は火花)は、独ソ戦中の1943年初頭、ラドガ湖南岸において展開されたドイツ北方軍集団第18軍とソビエト赤軍レニングラード戦線およびヴォルホフ戦線との戦いのことである。
背景
1941年9月8日シュリッセリブルクの町が占領されレニングラード包囲網が完成してから、包囲を突破する試みが何度もなされた。 1942年1月7日~7月12日にはルバニ作戦(ru)でソ連側は攻勢を続けたが第2打撃軍(en)の壊滅で終わった。
そしてセヴァストポリ包囲戦を終えた第11軍の大型攻城砲、スペインからの反共義勇軍青師団(1941年8月からヴォルホフ方面へ派遣されていた)がレニングラード前面に展開し強襲占領を目指した。
10月6日まではソ連軍の方が攻勢に出たが(Редактирование: 3-я Синявинская операция (1942))大きな損害を出し包囲解除の4度目の試みは失敗に終わった。しかしドイツ軍は強襲占領の攻勢(en:Operation Northern Light)に移れず6万人を戦死または捕虜として失い、飛行機260機、戦車200輌、砲・迫撃砲600門の損害を出した。
経過
ゴヴォロフ中将が作戦計画を立案し、それまでの攻勢の3倍2000門以上の砲を用意し新設第67軍がレニングラード戦線に補充された。 クリメント・ヴォロシーロフ元帥やゲオルギー・ジューコフ元帥が調整役として派遣される中でネヴァ川の氷結が完全になるまで作戦は延期された。
1943年1月12日9時30分、4500門以上の砲の2時間前後の準備砲火の後レニングラード・ヴォルホフ戦線の両方から部隊が進撃を開始した。
ドイツ軍は激しく反撃し、ゲオルク・フォン・キュヒラー元帥はシュリッセリブルク守備隊に最後の一兵まで戦えと指令したが、1月18日10時30分、シュリッセリブルク南東5マイル労働者村No.1付近でレニングラード戦線の第123狙撃兵師団がヴォルホフ戦線第372狙撃兵師団第1240連隊の一部と出会ったことによりレニングラード包囲は突破された。
結果
戦いの結果、ソビエト連邦軍はレニングラードへの地上領土連絡を回復し鉄道輸送が再開され、包囲網が部分的に解除された。しかしドイツ軍の砲爆撃は続き、包囲の全面的解除は1943年3月まで更に1年以上かかった[1]。
関連部隊
ソビエト赤軍
- レニングラード戦線(司令官:レオニード・ゴヴォロフ(Леонид Александрович Говоров)元帥)
- 第67軍(司令官:ミハイル・ドゥハーノフ(Михаил Павлович Духанов)少将)
- 第268狙撃兵師団、第136狙撃兵師団、第86狙撃兵師団、第123狙撃兵師団、第34スキー旅団、第152戦車旅団、第61戦車旅団
- 第55軍(司令官:ウラジーミル・スヴィリドフ(Владимир Петрович Свиридов)中将)
- 第67軍(司令官:ミハイル・ドゥハーノフ(Михаил Павлович Духанов)少将)
- ヴォルホフ戦線(司令官:キリル・メレツコフ(Кирилл Афанасьевич Мерецков)元帥)
- 第2打撃軍(司令官:ウラジーミル・ロマノフスキー(Владимир Захарович Романовский)中将)
- 第372狙撃兵師団
- 第8軍(司令官:フィリップ・スタリコフ(Филипп Николаевич Стариков)中将)
- 第2打撃軍(司令官:ウラジーミル・ロマノフスキー(Владимир Захарович Романовский)中将)
- 第13航空軍、第14航空軍
- バルチック艦隊およびラドガ湖小艦隊
ドイツ軍
- 北方軍集団(司令官:ゲオルク・フォン・キュヒラー(Georg Karl Friedrich Wilhelm von Küchler)元帥)
- 第18軍(司令官:ゲオルク・リンデマン(Georg Lindemann)上級大将)
- 第170歩兵師団
- 第227歩兵師団
- 第18軍(司令官:ゲオルク・リンデマン(Georg Lindemann)上級大将)
脚注
- ^ H・Eソールズベリー,訳大沢正 攻防900日下,早川書房, 1980,3/15, pp. 466-494
参考文献
- H・Eソールズベリー,訳大沢正,「攻防900日下」,早川書房, 1980,3/15
- ゲ・カ・ジューコフ,訳清川勇吉,「ジューコフ元帥回想録」,朝日新聞社,1970,1/20
外部リンク
イスクラ作戦(1943年)
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「レニングラード包囲戦」の記事における「イスクラ作戦(1943年)」の解説
スタフカはスターリングラードでの反攻作戦にあわせて、ゴヴォロフにレニングラード解放攻勢の詳細な計画を求めた。ゴヴォロフはシュリッセルブルク回廊に前進し、ドイツ軍の東側に展開するヴォルホフ方面軍と合流して封鎖を打破する計画を立てた。攻勢に備えて4500門の火砲が集積された。ゴヴォロフの計画はスタフカに承認され、イスクラ(火花)作戦と命名された。作戦を調整するため最高司令官代理ジューコフ元帥も派遣された。入念な準備の後、1943年1月12日、イスクラ作戦が開始された。まず、ありとあらゆる口径の火砲が、特定したドイツ軍の全砲兵陣地を徹底的に叩いた。ゴヴォロフが指揮するレニングラード方面軍はネヴァ河対岸を押さえると、前進を開始した。ドイツ軍は要塞化したシニャーヴィノ丘陵で前進を阻んだが、ゴヴォロフは正面攻撃を避け、迂回を命じた。ヴォルホフ方面軍は要塞化された第8労働者団地で激しい抵抗を受けた。しかしゴヴォロフの対砲兵射撃が大きな効果をあげ、先制射撃で叩かれたドイツ軍砲兵陣地は機能しなかった。1月15日、凍結したラドガ湖を経由して、赤軍のスキー旅団がシュリッセルブルクに突入した。二つの方面軍は合流まで800メートルの距離まで接近し、ゴヴォロフは最期の障害である第5労働者団地の堡塁に攻撃を命じた。2時間の激戦の末、ドイツ軍はシニャーヴィノ丘陵に撤退し、ついに二つの方面軍が合流に成功した。1943年1月17日、レニングラード市当局はラジオでレニングラードの解放を宣言、市民達は狂喜乱舞した。この頃、スターリングラードでも赤軍は勝利し(1月31日)、独ソ戦は大きな転換期を迎えた。
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