人的損失
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事件後に第6軍軍医部が作成した損害調査表によれば、日本軍は出動した58,925人のうち損失は次のようになっている。 戦死:7,696人 戦傷:8,647人 生死不明:1,021人(566人が捕虜うち160人が戦後に捕虜交換で生還)合計:17,364人(これは戦傷病から戦死に振り替える調整が終わっていない数値である)また同データにつき、17,405人とする見解や戦病2,350人を加えて19,768人とする見解もある 歴史家秦郁彦によれば、航空隊、戦車隊を含めた損失は戦死8,109人、戦傷8,664人、捕虜を含む行方不明1,021人に、病人2,363人とされ、大まかに人的損失(病人も含む)20,000人でうち戦死・行方不明は9,000人と主張している。日本軍と共に参戦した満州軍の損耗はハイラルにある忠霊塔には、合祀者202人と刻んであるが、満洲国軍日系軍官の会である蘭星会が出版した書籍「満州国軍」によれば「動員戦力は18,000」であるが「国軍の死傷は明らかではない」とされる。 日本軍の中でもノモンハンで終始戦い続けた第23師団の損失は極めて大きく、日本軍死傷者の大半を占めることとなった。 第23師団部隊別損耗表(1939年10月27日第23師団軍医部調整)部隊別戦死戦傷生死不明小計出動兵員数死傷率師団司令部26 45 6 77 232 33% 歩兵団司令部1 3 0 4 22 19% 歩兵第64連隊1,361 1,506 113 2,980 4,615 65% 歩兵第71連隊1,036 1,777 359 3,772 4,551 83% 歩兵第72連隊847 1,222 54 2,123 3,014 70% 捜索隊120 69 9 198 380 52% 野砲兵第13連隊569 595 98 1,262 1,747 73% 工兵第23連隊70 109 0 179 338 53% 輜重兵第23連隊41 28 0 69 299 23% 通信隊51 38 0 89 180 46% 衛生隊59 55 0 114 334 35% 野戦病院5 8 0 13 221 6% 病馬廠0 0 0 0 42 0% 合計4,786 5,455 639 10,880 15,975 68% この損失率は、後の第二次世界大戦におけるミンスクの戦いでのソ連軍西部正面軍の損失率60% - 70%(45個師団中32個師団を喪失)に匹敵するような高い損失率となった。 日本軍の損失については、ノモンハン戦後のかなり早い時期に情報開示されていたが、太平洋戦争後に研究者間で日本軍惨敗という評価が有力になると、日本軍の損害も過大に見積もられるようになった。1966年10月3日付『朝日新聞』での、靖国神社で行われた「ノモンハン事件戦没者慰霊祭」に関する記事で「ノモンハン事件戦没者一万八千余人」との報道がなされたことで、日本軍は過少に損害を公表していると主張するものもあったが、この記事は死傷者数約18,000人と戦没者数と混同しており、同じ朝日新聞においても、2006年7月17日付の記事では戦死者は約8,000人と報じられている。また、靖国神社が18,000人の戦没者を祭っていると誤認されていることもあるが、靖国神社自体の慰霊祭文でのノモンハン戦戦没者数は7,720人となっており、明らかな事実誤認であった。 ソ連側資料での日本軍損失は下記の通りである。 1939年11月15日のソ連第1軍集団参謀部が労農赤軍参謀総長ボリス・シャポシニコフに提出した『1939年ハルハ河地区作戦に関する報告書』によれば、7月と8月の戦闘だけで、日本軍の死傷者数は、4万4,768名(戦死者1万8,868名、負傷者2万5,900名)に達した。 1946年のシーシキン大佐の本では、日満軍の損失の総計は5万2,000から5万5,000、そのうち、死者だけで2万5,000人と記述した。 1993年のクリヴォーシェフ監修本でも日本の戦死者数は約2万5,000人とした。他方、ソ連軍中央国家文書館 (ЦГАСА) の文書によれば、戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281体であった。ソ連軍中央国家文書館所蔵のソ連軍資料では「1939年10月3日に、(日本)陸軍当局は戦死傷者数が1万8,000人であることを認めた」としながらも、日本陸軍当局(正確には第6軍軍医部)発表より過大な戦果報告を行っている。 また、ロシア国防省公史料館蔵資料によれば、日本満州軍の戦死者:18,155名、負傷者・行方不明:30,534名で、合計48,649人であった。
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人的損失
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ソ連は従来、イデオロギー的な宣伝のためもあって、日本側の死傷者推定を大きく膨らませる一方で、自軍の人的損害を故意に小さく見せようとしてきた。冷戦下で、ジューコフの報告や、ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編集した『大祖国戦争史(1941〜1945)』といった、ソ連側のプロパガンダによる過小な損害数のデータが広く知れ渡り、ソ連側の一方的勝利が定説化する大きな要因ともなった。 その定説が大きく覆されるきっかけとなったのが、ソ連の共産主義独裁体制が崩壊した1990年前後であり、グラスノスチにより次々とソ連軍のかつての極秘資料が公開される度に、ソ連軍の人的損害が激増していき、ついには日本軍の損害をも大きく超えていたことが判明し、ソ連が情報を意図的に操作していたことが明らかになっていった。 ソ連・モンゴル公表人的損失数の推移表軍隊出典日付死亡・行方不明捕虜戦傷総計ソ連軍 タス通信 1939年10月 300名 - 400名 900名 1,200名 - 1,300名 ジューコフ報告書 1939年11月 1,701名 7,583名 9,284名 極東国際軍事裁判判決文 1948年11月 9,000名 大祖国戦争史(1941〜1945) 1960年 9,284名 ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告 1991年8月 4,104名 94名 14,619名 18,815名 戦争、軍事行動および軍事紛争におけるソ連軍の損害 1993年 7,974名 15,251名 23,926名 20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析 2001年 9,703名 15,952名 25,655名 モンゴル軍 ロシア国防省戦史研究所のワルターノフ大佐の報告 1991年8月 165名 401名 566名 モンゴル戦史研究所 2001年 280名 710名 990名 2016年時点で最新のソ連軍・モンゴル軍の人的被害は下記の通りである。 ソ連軍戦死:9,703人 戦傷:約15,952名(約16,000名とする見解もある)ソ連軍合計:約25,655名 モンゴル軍死傷者990名ソ連軍・モンゴル軍合計:26,645人。 ソ連軍の損失率はノモンハン事件の全期間を通じて高い水準で推移し、投入兵力に対するソ連軍の損失率は34.6%の高い水準に達した。これは同じソ連軍の攻勢における損失で、後の第二次世界大戦での東部戦線の激戦の一つであるクルスクの戦いにおける、最大の激戦地区となった南部戦区の損失率13.8%を大きく上回る損失率となっている 日本軍は事件直後には、ソ連軍の損害を比較的正確に把握していた。停戦後1939年10月17日に参謀本部作戦課長稲田正純大佐らが纏めた報告書『ノモンハン事件に関する若干の考察』にて、「(ソ連軍)人員ノ死傷ハ恐ラク弐萬に及ビ」とソ連軍の死傷者は20,000名前後だと捉えていた。 事件当時、あまりにも莫大に発生したソ連軍の戦傷者を寝かせるベッドが全く足らず、ノモンハンに近いソ連の都市チタは負傷者で病院は満杯となり、溢れた負傷者はイルクーツクや西シベリアの各都市に送られ、さらにはソ連の欧州部であるクリミア半島やコーカサスにも送られている。その様子をソ連の駐在武官補佐の美山要蔵中佐が目撃しており「ソ連軍も相當な損害を得まして、シベリア極東方面の病院には概ね九千余名を収容しております。尚モスコウ(モスクワ)方面には医者を要求しているし、駅の待避線に入っている病院列車を見ます」と報告している。
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人的損失
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アメリカ独立戦争によって失われた人命の総数は正確なところが分かっていない。当時の戦争の常として、病気による死者が戦闘による死者の数を上回っていた。歴史家のジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊の兵士に天然痘の予防接種を受けさせたことは、その最も重大な決断の一つだったと示唆している。 推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25,000名ほどとされている。このうち8,000名ほどが戦死で、残りの17,000名ほどが戦病死であった。戦病死の中には捕虜として収容されている間に死んだ者8,000名ほどが含まれていた。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8,500名から25,000名ほどと推計されている。つまりアメリカ側の損失は高々50,000名ということになる。 イギリス海軍には約171,000名の水夫が従軍したが、そのうち25ないし50%は強制徴募によるものだった。約1,240名が戦死し、約18,500名が病気で死んだ。一番多い死因は壊血病であった。当時この病気を避けるための一番簡単な方法は、水夫にレモンジュースを与えることだった。約42,000名の水夫は脱走した。 およそ1,200名のドイツ人傭兵が戦死し、6,354名は病死した。ドイツ人傭兵の残り約16,000名はドイツに戻ったが、約5,500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となった。他の集団、つまりアメリカやカナダの王党派、イギリス正規陸軍、アメリカの先住民、フランスおよびスペイン軍、さらに市民の損失については信頼に足る統計データが無い。
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