人的損失とは? わかりやすく解説

人的損失

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「人的損失」の解説

事件後に第6軍軍医部作成した損害調査によれば日本軍出動した58,925人のうち損失次のようになっている戦死:7,696戦傷:8,647人 生不明:1,021人(566人が捕虜うち160人が戦後捕虜交換生還合計17,364人(これは戦傷病から戦死振り替える調整終わっていない数値である)また同データにつき、17,405人とする見解戦病2,350人を加えて19,768人とする見解もある 歴史家秦郁彦によれば航空隊戦車隊含めた損失戦死8,109人、戦傷8,664人、捕虜を含む行方不明1,021人に、病人2,363人とされ、大まかに人的損失(病人も含む)20,000人でうち戦死行方不明は9,000人と主張している。日本軍と共に参戦した満州軍損耗ハイラルにある忠霊塔には、合祀者202人と刻んであるが、満洲国軍日系軍官の会である星会が出版した書籍満州国軍によれば動員戦力18,000」であるが「国軍死傷は明らかではない」とされる日本軍中でもノモンハン終始戦い続けた第23師団損失極めて大きく日本軍死傷者大半占めることとなった第23師団部隊損耗表(1939年10月27日第23師団軍医部調整部隊戦死戦傷生死不明小計出動兵員数死傷師団司令部26 45 6 77 232 33% 歩兵司令部1 3 0 4 22 19% 歩兵第64連隊1,361 1,506 113 2,980 4,615 65% 歩兵第71連隊1,036 1,777 359 3,772 4,551 83% 歩兵第72連隊847 1,222 54 2,123 3,014 70% 捜索隊120 69 9 198 380 52% 野砲兵第13連隊569 595 98 1,262 1,747 73% 工兵23連隊70 109 0 179 338 53% 輜重兵23連隊41 28 0 69 299 23% 通信51 38 0 89 180 46% 衛生隊59 55 0 114 334 35% 野戦病院5 8 0 13 221 6% 病馬廠0 0 0 0 42 0% 合計4,786 5,455 639 10,880 15,975 68% この損失率は、後の第二次世界大戦におけるミンスクの戦いでのソ連軍西部正面軍損失60% - 70%(45師団32師団喪失)に匹敵するような高い損失となった日本軍損失については、ノモンハン戦後のかなり早い時期情報開示されていたが、太平洋戦争後に研究者間で日本軍惨敗という評価が有力になると、日本軍の損害過大に見積もられるようになった1966年10月3日付『朝日新聞』での、靖国神社行われたノモンハン事件戦没者慰霊祭に関する記事で「ノモンハン事件戦没者一万八千余人」との報道なされたことで、日本軍過少に損害公表していると主張するものもあったが、この記事死傷者数18,000人と戦没者数と混同しており、同じ朝日新聞においても、2006年7月17日付の記事では戦死者は約8,000人と報じられている。また、靖国神社18,000人の戦没者祭っていると誤認されていることもあるが、靖国神社自体慰霊祭文でのノモンハン戦戦没者数は7,720となっており、明らかな事実誤認であったソ連側資料での日本軍損失下記の通りである。 1939年11月15日ソ連第1軍集団参謀部労農赤軍参謀総長ボリス・シャポシニコフ提出した1939年ハルハ河地区作戦に関する報告書によれば7月8月戦闘だけで、日本軍死傷者数は、44,768名(戦死者1万8,868名、負傷者2万5,900名)に達した1946年シーシキン大佐の本では、日満軍の損失総計5万2,000から5万5,000そのうち死者だけで2万5,000人と記述した1993年のクリヴォーシェフ監修本でも日本戦死者数は約2万5,000人とした。他方ソ連軍中央国家文書館 (ЦГАСА) の文書によれば戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281であったソ連軍中央国家文書館所蔵ソ連軍資料では「1939年10月3日に、(日本陸軍当局戦死傷者数が1万8,000人であることを認めた」としながらも、日本陸軍当局正確に第6軍軍医部発表より過大な戦果報告行っている。 また、ロシア国防省史料館資料によれば日本満州軍戦死者18,155名、負傷者行方不明30,534名で、合計48,649人であった

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人的損失

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ノモンハン事件」の記事における「人的損失」の解説

ソ連従来イデオロギー的な宣伝のためもあって、日本側の死傷者推定大きく膨らませる一方で自軍人的損害故意小さく見せようとしてきた。冷戦下で、ジューコフ報告や、ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所編集した大祖国戦争史(19411945)』といった、ソ連側プロパガンダによる過小損害数のデータ広く知れ渡りソ連側一方的勝利定説化する大きな要因ともなった。 その定説大きく覆されるきっかけとなったのが、ソ連共産主義独裁体制崩壊した1990年前後であり、グラスノスチにより次々とソ連軍のかつての極秘資料公開される度に、ソ連軍人的損害激増していき、ついには日本軍の損害をも大きく超えていたことが判明しソ連情報意図的に操作していたことが明らかになっていったソ連・モンゴル公表人的損失数の推移軍隊出典日付死亡行方不明捕虜戦傷総計ソ連軍 タス通信 1939年10月 300名 - 400900名 1,200名 - 1,300ジューコフ報告書 1939年11月 1,701名 7,583名 9,284極東国際軍事裁判判決文 1948年11月 9,000名 大祖国戦争史(194119451960年 9,284ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐報告 1991年8月 4,1049414,61918,815名 戦争軍事行動および軍事紛争におけるソ連軍損害 1993年 7,974名 15,25123,926名 20世紀戦争におけるロシア・ソ連統計的分析 2001年 9,70315,952名 25,655名 モンゴル軍 ロシア国防省戦史研究所のワルターノフ大佐報告 1991年8月 165401名 566名 モンゴル戦史研究所 2001年 280710名 990名 2016年時点で最新ソ連軍モンゴル軍人的被害下記の通りである。 ソ連軍戦死:9,703戦傷:約15,952名(約16,000名とする見解もある)ソ連軍合計:約25,655名 モンゴル軍死傷者990名ソ連軍モンゴル軍合計26,645人。 ソ連軍損失率はノモンハン事件全期間通じて高い水準推移し投入兵力対すソ連軍損失率は34.6%の高い水準達した。これは同じソ連軍の攻勢における損失で、後の第二次世界大戦での東部戦線激戦一つであるクルスクの戦いにおける、最大激戦地となった南部戦区損失率13.8%を大きく上回る損失となっている 日本軍事件直後には、ソ連軍損害比較正確に把握していた。停戦後1939年10月17日参謀本部作戦課長稲田正純大佐らが纏めた報告書ノモンハン事件に関する若干考察』にて、「(ソ連軍人員死傷ハ恐ラクに及ビ」とソ連軍死傷者20,000前後だと捉えていた。 事件当時あまりにも莫大発生したソ連軍戦傷者寝かせベッドが全く足らずノモンハンに近いソ連都市チタ負傷者病院満杯となり、溢れた負傷者イルクーツク西シベリアの各都市送られさらにはソ連欧州部であるクリミア半島コーカサスにも送られている。その様子をソ連駐在武官補佐美山中佐目撃しており「ソ連軍も相當な損害を得まして、シベリア極東方面病院には概ね九千余名収容しております。尚モスコウモスクワ方面には医者要求しているし、駅の待避線入っている病院列車見ます」と報告している。

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人的損失

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:33 UTC 版)

アメリカ独立戦争」の記事における「人的損失」の解説

アメリカ独立戦争によって失われた人命総数正確なところが分かっていない。当時戦争の常として、病気による死者戦闘による死者の数上回っていた。歴史家のジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊兵士天然痘予防接種を受けさせたことは、その最も重大な決断一つだったと示唆している。 推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者25,000名ほどとされている。このうち8,000名ほどが戦死で、残り17,000名ほどが戦病死であった戦病死中には捕虜として収容されている間に死んだ者8,000名ほどが含まれていた。重傷負った者、あるいは障害者となった者は8,500名から25,000名ほどと推計されている。つまりアメリカ側損失高々50,000ということになる。 イギリス海軍には約171,000名の水夫従軍したが、そのうち25ないし50%強制徴募よるものだった。約1,240名が戦死し、約18,500名が病気死んだ。一番多い死因壊血病であった当時この病気避けるための一番簡単な方法は、水夫レモンジュース与えることだった。約42,000名の水夫脱走した。 およそ1,200名のドイツ人傭兵戦死し、6,354名は病死した。ドイツ人傭兵残り16,000名はドイツ戻ったが、約5,500名は様々な理由アメリカ残り結果的にアメリカ市民となった他の集団、つまりアメリカカナダ王党派イギリス正規陸軍アメリカ先住民フランスおよびスペイン軍、さらに市民損失については信頼に足る統計データが無い。

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