倒幕への経過とは? わかりやすく解説

倒幕への経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:56 UTC 版)

倒幕運動」の記事における「倒幕への経過」の解説

1600年慶長5年)の関ヶ原の戦い徳川家康による江戸幕府創設決定付ける同時に200年上の時を超え大名多く教訓残した。そして、関ヶ原の戦い生じた怨恨倒幕運動原動力となっていった(後述)。 帝国主義時代入った欧米列強進出侵略の手東アジアにも迫り中国ではイギリスとの間にアヘン戦争起こり香港島奪われ日本ではロシアアダム・ラクスマン来航1792年)といった諸外国通商求め出来事や、フェートン号事件1808年)やゴローニン事件1811年)といった摩擦紛争起こり始めた天下泰平世の中鎖国体制下の社会)を乱されたくない・邪魔されたくないといった心情は、攘夷運動になっていった。 やがて1841年天保12年)に天保の改革が始まると、外様大名の中から藩政改革成功を収める藩が出てくるようになる奇しくもその筆頭格は、倒幕主役となった薩摩長州土佐肥前各藩であった政権担当する者・勢力はいつの世でもそうすることが多いが、黒船象徴される圧倒的な武力見せ付けられた幕府は、現実的な解として、開国選択する朝廷攘夷意志を示す。孝明天皇自身賛同したか否か意見一致しない江戸後期ごろ、日本の古典研究する学問国学のなかから、“外来宗教伝来以前日本人固有の考え方”という発想起こった良寛残した戒語のひとつ「好んで唐言を使う」によって表される社会気分雰囲気から生まれたものだと思われる。この発想追求された“日本人固有”の行き着くところは天皇になり、外圧高まりとともに尊皇思想高ぶっていくことになった政治重心が、京都移行する14代将軍・徳川家茂の上洛の折、京都治安悪化懸念され浪士組結成される。その浪士組のうち、京に残った派が新選組結成(のちに憲兵のような役割を果たす)。 朝廷からの攘夷願い無視できず、幕府形式的な攘夷命令諸藩下す長州藩下関戦争引き起こし砲台奪われ領地侵入され英・仏・米の四国連合大敗する薩摩藩薩英戦争人的損失少なかったが、鹿児島城下の10分の1焼失するという甚大な被害生じ事となった。 薩摩藩は、薩英戦争経験から攘夷不可能であると判断し開国に論を変え、藩力の充実先進技術取得努めることになった長州藩下関戦争の後、尊皇論基盤藩論攘夷維持していたが、1865年慶応元年)、日米修好通商条約孝明天皇勅許出したことにより尊皇攘夷は結びつかなくなり攘夷の力が失われた土佐藩坂本龍馬らの仲介があって、薩摩藩長州藩和解倒幕密約を結ぶ。後、西の諸藩倒幕元に結集する長州藩は、俗論党により途中幕府恭順姿勢見せるも、その前後は反幕府という姿勢だった。 薩摩藩土佐藩などは、当初公武合体徳川家議長とする諸侯会議目標としていたが、ある段階から幕府見切りそれまでの敵の長州藩手を結んだ1867年慶応3年11月9日密かに薩長討幕の密勅がだされた(偽勅説もある)。しかし、元土佐藩主・山内容堂らの進言尽力により、同じ日に将軍徳川慶喜大政奉還した

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