倒幕への経過
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1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いは徳川家康による江戸幕府創設を決定付けると同時に、200年以上の時を超え各大名に多くの教訓を残した。そして、関ヶ原の戦いで生じた怨恨は倒幕運動の原動力となっていった(後述)。 帝国主義時代に入った欧米列強の進出・侵略の手は東アジアにも迫り、中国ではイギリスとの間にアヘン戦争が起こり香港島が奪われ、日本ではロシアのアダム・ラクスマンの来航(1792年)といった諸外国が通商を求める出来事や、フェートン号事件(1808年)やゴローニン事件(1811年)といった摩擦・紛争が起こり始めた。天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を乱されたくない・邪魔されたくないといった心情は、攘夷運動になっていった。 やがて1841年(天保12年)に天保の改革が始まると、外様大名の中から藩政の改革に成功を収める藩が出てくるようになる。奇しくもその筆頭格は、倒幕の主役となった薩摩・長州・土佐・肥前の各藩であった。 政権を担当する者・勢力はいつの世でもそうすることが多いが、黒船に象徴される圧倒的な武力を見せ付けられた幕府は、現実的な解として、開国を選択する。 朝廷が攘夷の意志を示す。孝明天皇自身が賛同したか否かは意見が一致しない。 江戸後期ごろ、日本の古典を研究する学問国学のなかから、“外来宗教伝来以前の日本人固有の考え方”という発想が起こった。良寛が残した戒語のひとつ「好んで唐言葉を使う」によって表される社会の気分・雰囲気から生まれたものだと思われる。この発想で追求された“日本人固有”の行き着くところは天皇になり、外圧の高まりとともに尊皇思想も高ぶっていくことになった。政治の重心が、京都に移行する。 14代将軍・徳川家茂の上洛の折、京都の治安悪化が懸念され浪士組が結成される。その浪士組のうち、京に残った派が新選組を結成(のちに憲兵のような役割を果たす)。 朝廷からの攘夷願いを無視できず、幕府は形式的な攘夷命令を諸藩に下す。 長州藩は下関戦争を引き起こし、砲台を奪われ、領地に侵入され英・仏・蘭・米の四国連合に大敗する。 薩摩藩は薩英戦争で人的損失は少なかったが、鹿児島城下の10分の1が焼失するという甚大な被害が生じる事となった。 薩摩藩は、薩英戦争の経験から攘夷は不可能であると判断し、開国に論を変え、藩力の充実と先進技術の取得に努めることになった。長州藩は下関戦争の後、尊皇論を基盤に藩論は攘夷で維持していたが、1865年(慶応元年)、日米修好通商条約に孝明天皇が勅許を出したことにより尊皇と攘夷は結びつかなくなり、攘夷の力が失われた。土佐藩の坂本龍馬らの仲介があって、薩摩藩と長州藩は和解、倒幕の密約を結ぶ。後、西の諸藩が倒幕の元に結集する。 長州藩は、俗論党により途中「幕府恭順」姿勢を見せるも、その前後は反幕府という姿勢だった。 薩摩藩・土佐藩などは、当初は公武合体・徳川家を議長とする諸侯会議を目標としていたが、ある段階から幕府を見切り、それまでの敵の長州藩と手を結んだ。 1867年(慶応3年)11月9日に密かに薩長に討幕の密勅がだされた(偽勅説もある)。しかし、元土佐藩主・山内容堂らの進言・尽力により、同じ日に将軍・徳川慶喜は大政を奉還した。
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