倒幕に参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:48 UTC 版)
慶応3年5月21日、中岡慎太郎の仲介によって板垣退助や毛利吉盛と共に京都の小松清廉邸で、薩摩藩の西郷隆盛や吉井友実と会い、薩土密約(薩土盟約とは異なる)を結んで武力討幕を目指した。だが、後藤が結んだ薩土盟約は大政奉還を趣旨とする穏健な倒幕を目指していたため谷の目標と食い違い、容堂に重用された後藤が土佐藩を動かしていく状況に不満を募らせていたが、慶応4年(明治元年・1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると板垣と共に藩兵を率いて出動した。万一の場合に備え、同族で本家から谷乙猪を養子に迎え、彼とその兄谷重喜(神兵衛)と共に戦線に加わった。 戊辰戦争では、板垣率いる迅衝隊の小軍監(後に大軍監に昇格)として北関東・会津戦争で活躍する。3月は新選組から改名した甲陽鎮撫隊を甲州勝沼の戦いで破り、江戸開城で待機し4月に北上、日光山で旧幕府軍と対峙、今市の戦いを経て5月に一旦土佐へ戻り、戦線へ復帰すると会津へ向かい、8月の会津城籠城戦に加わり11月に土佐へ凱旋、戦功として家禄400石に加増され、仕置役に任命された。 明治2年(1869年)は参政、翌3年(1870年)には少参事に任じられ高知(土佐)で藩政改革に尽力した。だが東京にいた後藤と板垣が積極財政と浪費を重ね藩財政を傾けていたことに反発、片岡健吉と共に後藤等の頭越しに藩士のリストラと費用削減を遂行したが、これが彼等の怒りを買い藩政から排除された。だが浪費で財政が傾いたため谷は反対派から信望を集め、それを無視出来ない藩の要請で明治4年(1871年)4月に少参事に復帰、藩兵の軍制改革に尽くした。
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