千住製絨所とは? わかりやすく解説

千住製絨所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 13:47 UTC 版)

千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)は、かつて東京都荒川区南千住にあった官営の工場。明治新政府によって設立され、被服生地を製造していた。

歴史

製絨所時代の名残の煉瓦塀(現在は一部を除き撤去された)
井上省三胸像

明治維新から暫くの間、新政府の軍服制服は輸入により賄われていた。外貨減少を抑えるためその国産化が必要であると感ぜられ、まず1875年明治8年)9月、千葉県牧羊場が設けられ羊毛の生産が開始された。同年中に被服製造技術を学ぶためドイツに派遣されていた旧長州藩士の井上省三の帰朝をもって1879年(明治12年)9月27日、東京・南千住にあった、ただ葦が茂り人家がぽつりとあるだけの広い荒地(現・荒川区南千住6丁目)に千住製絨所が完成、操業を開始した。

1883年(明治16年)12月29日、払暁地区で起こった火災で製絨所は主要設備をほとんど焼失した。井上は、この復興に超人的努力を払ったが1886年(明治19年)、病にかかり帰らぬ人となってしまった。1888年(明治21年)、陸軍省の管轄となって工場を拡張。陸軍所要の布地類、毛糸等を生産・管理した。他官庁や民間から製造、研究の依頼さらに技術指導や技術者養成の依頼があったときは陸軍大臣の認可をもってこれらに応ずることとされていたため、国内繊維・被服産業の発展に大いに貢献した。

1945年昭和20年)、敗戦により一切の操業を停止し、土地建物併せて足立区の民間企業・大和毛織に売却されたが、業績不振により1960年(昭和35年)に操業停止となり閉鎖、製絨所は80余年の歴史に幕を閉じた。跡地の一部は名古屋鉄道に売却されたが、映画会社大映が跡地を取得し、1962年(昭和37年)、同社がオーナー企業となっていたプロ野球球団・大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の本拠地野球場・東京スタジアムが建設された。だが東京スタジアムは大映が経営破綻した影響で1972年(昭和47年)限りで閉鎖となり、その後施設は撤去された。現在は荒川区が運営する荒川総合スポーツセンター、草野球場、ならびに警視庁南千住警察署の立地となっている。

都立荒川工業高等学校サッポロビール荒川物流センター付近の路地に沿って煉瓦製の塀が長らく残っていた。しかし、荒川工業高校の改築ならびに、サッポロビール物流センター移転とその跡地へのライフ南千住店建設に伴い、1990年代~2000年代にかけて、若宮八幡通り沿いを除き、大部分が撤去された。現在、ライフ店舗の駐輪場に2枚、数メートルが残され産業遺構として保存されている。また、荒川総合スポーツセンター付近には井上の銅像・記念碑が建っている。

井上省三

千住製絨所初代所長の井上省三(1845年 - 1886年)は、長門国(現・山口県)厚狭郡宇津井村の庄屋の子として生まれ、萩藩の厚狭毛利氏家臣となり、奇兵隊隊長として倒幕に参加、明治維新後、木戸孝允に随って上京、1871年(明治4年)に北白川宮能久親王に随行してドイツのベルリンに留学し、兵学から工業へ転向して毛織技術を修得し、1875年(明治8年)に帰国後内務省勧業寮へ配属された[1][2]。その後再渡欧し、1878年(明治11年)にシレジアザーガン染色職人の娘と結婚して帰国、千住製絨所の所長に就任した[3]

栄典

所長

  • 山本昇 陸軍主計監:1936年12月1日 - 1939年8月1日[5]
  • 森武夫 陸軍主計少将:1939年8月1日 - 1940年4月1日[6]

脚注

  1. ^ 井上省三』 - コトバンク
  2. ^ 渡欧『井上省三伝』井上省三記念事業委員会、1938
  3. ^ 結婚『井上省三伝』井上省三記念事業委員会、1938
  4. ^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
  5. ^ 福川 2001, 777頁.
  6. ^ 福川 2001, 725頁.

参考文献

  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 

千住製絨所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:02 UTC 版)

大竹多気」の記事における「千住製絨所」の解説

同年6月、千住製絨所に傭として就職した。千住製絨所は官営毛織物工場で、明治31年1898年)に陸軍管轄となる。製絨所は井上省三尽力発展しつつあったが、明治16年1883年)に工場全焼したうえに、外国人技師との雇用問題などを抱え危機陥った明治18年1885年)、製絨所を管轄していた農商務省大竹イギリス派遣決定する大竹課せられた使命は、機械類買付け毛織物技術習得である。 大竹ヨークシャー大学リーズ大学)で染色技術デザイン学び首席卒業した大竹染色技術学問的体系的)に学んだ最初日本人推測される。またロンドン市および同議会技術試験合格し製絨術、毛織物染物術で名誉一級となっている。 なお、この時期英国留学していた者に真野文二末松謙澄がいた。後に大竹長男虎雄1893-?)は末松養女澤子伊藤博文庶子)を娶る虎雄東京専売局長を務めた大蔵官僚で、著書に『経済学概論』などがある。次男早世三男千里音楽家となったパリ客死した27歳)。虎雄澤子の間に生まれた大竹東北大学工学博士である。大竹虎雄会津会会員であった当時日本染色技術天然染料主流としていた。このため色落ち問題抱え生糸生産国立場留まり付加価値有する製品輸出する段階至っていなかった。大竹学問的知識欠ける者でも利用可能染料分類方法紹介し日本への合成染料導入寄与する明治23年1890年)に技師昇格し、千住製絨所の技術革新努めつつ、東京帝大東京高等工業講師務めた明治34年1901年)には博士会の推薦によって工学博士となる。 この年大竹自動織機について講演行い、『自働織機』を刊行した自動織機大竹独創的なアイディアではないが、この書は自動織機開発志す者に有益なもので、後の開発影響与えている。 大竹明治35年1902年4月から所長として製絨所の指揮執り日露戦争前に小池正直主導した検疫設置準備委員会委員就任している。千住製絨所は羅紗軍服製造担い戦中は非常態勢がとられた。職員職工昼夜12時交代働き生産量前年度の2倍以上に増加している。明治37年度の職工延人数前年度男女34万人台から71万人台へ、羊毛購入費は110万円代から300万円台への増加がみられた。こうして千住製絨所は中国東北部などの寒地戦った日本兵の健康を守ったのである製絨幹部戦後叙勲を受け、大竹勲三等叙される。大竹にとって日清戦争後に続く2度目叙勲であった。しかし、明治41年1908年4月官制変更によって、大竹工務長へ降格となった

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