井上省三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/25 22:15 UTC 版)
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井上 省三(いのうえ しょうぞう、弘化2年10月25日〈1845年11月14日〉 - 明治19年〈1886年〉12月14日)は、日本の実業家、技術者。明治時代初期の官吏。「日本の毛織物工業の父」と呼ばれた[1][2]。
生い立ち
1845年11月14日(弘化2年10月25日)に厚狭郡宇津井村(現下関市)の庄屋である伯野家に次男として生まれ[1][3]、同郡厚狭村(現山陽小野田市)の厚狭毛利家の家臣である井上家の養子となる。山口兵学校で蘭学を学び、奇兵隊隊長として倒幕に参加、1869年(明治2年)に木戸孝允と出会う。翌年に上京し、半年後に北白川宮能久親王に随行しドイツのベルリンへ留学。
当初は兵学を目的としていたが、殖産興業に変更し織物工場にて製絨技術を学ぶ。1875年(明治8年)に帰国し、内務省勧業寮へ出仕[4][5]。官営の製絨所を設立する準備のために再びドイツへ向かい、機械の購入や技師を雇い入れ、1878年(明治11年)にシレジア州ザーガンの染色職人の娘と結婚して帰国[6]。1879年(明治12年)、日本初となる毛織物工場「千住製絨所」が開業。初代所長となり日本の毛織物工業の礎を築いた。1886年(明治19年)2月13日に農商務少技長に任ぜられ[7]、同年12月14日に病気で42歳で亡くなる。墓所は熱海市海蔵寺。
栄典
銅像

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没後50年となる1936年(昭和11年)12月14日、千住製絨所構内に銅像が建設された[10][信頼性要検証]。
脚注
- ^ a b “井上 省三 | 山口県の先人たち”. heisei-shokasonjuku.jp. 2021年2月28日閲覧。
- ^ “第12回「殖産興業の父(2)」 | 歴史に学ぶ 父と呼ばれた日本人―近代日本を創った801人”. 近代国家形成という激動の時代に、各分野において先駆的役割を果たし、「父」なる称号を得た偉人たち。彼らが「父」と呼ばれる理由は、その功績だけではない。本連載では、「父」と呼ばれた偉人の功績をたどりつつ…. 2021年2月28日閲覧。
- ^ 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典,世界大百科事典内言及, デジタル版. “井上省三とは”. コトバンク. 2021年2月28日閲覧。
- ^ 『井上省三』 - コトバンク
- ^ 渡欧『井上省三伝』井上省三記念事業委員会、1938
- ^ 結婚『井上省三伝』井上省三記念事業委員会、1938
- ^ 『官報』第783号、明治19年2月15日。
- ^ 『官報』第907号、明治19年7月10日。
- ^ 『官報』第1039号、明治19年12月15日。
- ^ “銅像 井上省三”. soutairoku.com. 2021年2月28日閲覧。
参考文献
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- 木代修一『井上省三伝』1938
- 山陽町郷土史研究会『山陽史話 第1輯』1970
- 日本毛織株式会社百年史編纂室『日本毛織百年史』1997
- 『日本毛織工業創始者井上省三略暦』1936
- 三木克彦『井上省三とその妻子-ルードルフ・ケーニッヒの手記から‐』1986
- 三木克彦『物語南千住の製絨先覚者大関増業と井上省三』1981
- 山口県魅力発信サイトきらりんく|おもしろ山口学 - ウェイバックマシン(2023年7月23日アーカイブ分)
- 「日本毛織物工業の父」井上省三と千住製絨所(荒川区)[信頼性要検証]
- 井上省三のページへのリンク