生田秀
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生田 秀(いくた ひいず[1]、1857年(安政4年) - 1906年(明治39年)3月28日[2])は、日本近代ビールの父と称された大阪麦酒会社(現アサヒビール)の支配人、技術長。息子に鼓筒研究家の生田耕一がおり、自身も小鼓を収集していた[3]。新潟県佐渡島出身であり、16歳のころ上京し、同じく新潟県出身の司馬凌海による私塾「春風社」へと入塾、同時に東京外語大学へと入学してドイツ語を学ぶ。大学卒業後は大阪麦酒会社に入社、1888年にドイツへと渡り、醸造学を9ヶ月で学位を獲得し日本人として初のブラウマイスターの称号を得た。帰国後はドイツ留学の経験を生かし、吹田村醸造所の建設を手がけアサヒビール初出荷へ向け尽力した。
- ^ “日本のビール醸造の開拓者たち・生田秀|歴史人物伝|キリン歴史ミュージアム|キリン” (日本語). キリン. 2020年5月6日閲覧。
- ^ 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.983
- ^ 日本の技と音
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