生産技術の輸入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 16:33 UTC 版)
黒船来航によって近代化の遅れを実感した日本では紆余曲折のあと明治維新が起こる。これに前後して、幕府、藩、および明治政府は、日本の近代化のために留学生を渡欧させるが、その内容は兵学とともに生産技術の吸収が大きな目的であった。富国強兵の富国がすなわち生産技術のことであった。 明治維新後、殖産興業の名のもと富岡製糸場、新町紡績所、金沢製糸所などの官営の工場が作られたが、これらは技術も経営も欧米からのエンジニア(お雇い外国人)によって運営されていた。工場の作り方を学ぼうにも、欧米人の技術者が言うことが解らない。言葉は判ってもそれの意味するところが理解できなかった。何しろ当時の日本には生産という言葉さえなかったのである。核心技術を学び取れない状態に危機感を抱いた大久保利通は、明治4年から兵学を学びにドイツに行っていた井上省三に撚糸工場の技術を学ぶことを急遽依頼する。依頼を受けた井上は撚糸工場で働き始める。1日14時間の労働に加えて、4時間を勉強時間にあてるという猛烈な仕事ぶりだったという。明治8年、帰国した井上は、明治13年、東京に千住製絨所という日本人の手による初の工場を作り上げた。 明治12年には、保険事業の勉強のためイギリスに留学していた山辺丈夫にも、工場経営の知識を習得するよう渋沢栄一から依頼がなされた。山辺はマンチェスターの紡績工場で1年間現場で働いたあと、大阪堂島に紡績工場を立ち上げた。 井上や山辺らの持ち帰った概念をもとに、生産、技術、作業、検査、経営、工数などの言葉が創られた。日本人が生産技術という概念を吸収した瞬間であった。 生産技術を吸収した日本人は、自分たちの力で日本各地に撚糸工場を作っていく。鐘紡、片倉工業など民間企業もこの頃に多く設立された。生産技術者不足から明治32年京都高等蚕糸学校、明治43年上田蚕糸専門学校などの教育機関も創立される。その結果、繊維業を中心として各分野に生産技術者が充実していった。また、繊維業からは生産技術者の充実を背景として、後のトヨタ自動車の元となった豊田自動織機などの新興企業が生まれた。
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