渡欧とは? わかりやすく解説

と‐おう【渡欧】

読み方:とおう

[名](スル)欧州に渡ること。


渡欧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:47 UTC 版)

今中大介」の記事における「渡欧」の解説

ヨーロッパでシマノからの出向扱いイタリア名門プロチーム「チーム・ポルティ(Team Polti)」に所属し今中アシスト選手として活動する。渡欧初年度日欧レベルの差に苦しみながらもエースジャンニ・ブーニョジャモリディネ・アブドジャパロフアシストとしてアタック潰しボトル運び従事し徐々にチームメイト信頼を得る。主な成績はグラン・プレミオ・チッタ・ディ・リオ(Gran Premio Citta Di Rio)15位など。この年世界選手権には、今中をはじめ市川雅敏山田隆博藤野智一とともに出場する全員リタイヤとなった。 渡欧2年目1995年にはジロ・デ・イタリア出場した。スタンガ監督からは「二三日でやめるな」と釘を刺されての出場であったが、結果的に今中全体3分の2に当たる14ステージまで参加するも、第12ステージ落車巻き込まれて顎を数針縫うケガ負い第14ステージ途中でリタイアとなった)。なお、この時、イタリアメディアからは「シマノ技術者ジロ・デ・イタリア走っている」と受け止められていたとのことジロリタイアした後はしばらく休養取り8月下旬よりリーズ・インターナショナル、クラシカ・サンセバスティアン、ブエルタ・チクリスタ・ガレガなどに参加。ポルティとの契約2年であったが、1年延長となった3年目1996年春先から好調で、2年目までの今中イメージ覆すような果敢なアタックや引きを見せ周囲選手たち驚かせる。なお、3月24日にはレーススタート直前長男誕生したとの一報伝えられ審判車や選手たち祝福されながらのレースとなった

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渡欧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:18 UTC 版)

大越成徳」の記事における「渡欧」の解説

1876年明治9年5月10日イギリス公使館附書記一頭見習となり、6月14日南条文雄笠原研寿の留学とともに横浜港出港した森有礼公使の下で関税自主権の回復目指したが、1878年明治11年ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンジェボンズ経済学学び保護貿易疑問を抱くようになった1879年明治12年12月三等書記生1881年明治14年書記生1882年明治15年4月4日帰国願い出8月24日公信局御用掛、25日朝鮮国務掛となった1883年明治16年4月19日外務書記生として再びロンドン領事館配属された。1885年明治18年12月リヨン領事としてフランス転任し1887年明治20年3月9日バルセロナ万国博覧会理事官となったが、1889年明治22年)暇を得て6月28日帰国した1889年明治22年)『外国貿易拡張論』を著し自由貿易主張、これが『東京経済雑誌』において評価され以降度々同誌に寄稿するようになった1891年明治24年3月27日ロンドン領事6月26日総領事代理任じられた。1892年明治25年)の倫敦日本協会創立尽力した

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渡欧(幕臣時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)

福澤諭吉」の記事における「渡欧(幕臣時代)」の解説

文久元年1861年)、福沢諭吉中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した同年12月幕府竹内保徳正使とする幕府使節団文久遣欧使節)を結成し欧州各国派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団加わり同行することになった。この時の同行者には他に、松木弘安箕作秋坪、などがいて、総勢40人ほどの使節団であった文久元年1861年12月23日幕府使節団は英艦「オーディン号(英語版)」に乗って品川出港した12月29日長崎寄港し、そこで石炭などを補給した文久二年(1862年1月1日長崎出港し1月6日香港寄港した幕府使節団はここで6日間ほど滞在するが、香港植民地主義・帝国主義吹き荒れているのを目の当たりにし、イギリス人中国人犬猫同然に扱うことに強い衝撃受けた1月12日香港出港しシンガポール経てインド洋紅海渡り2月22日スエズ到着したここから幕府使節団陸路汽車移動しスエズ地峡超えて、北のカイロ向かったカイロ到着するとまた別の汽車に乗ってアレキサンドリア向かったアレキサンドリア到着すると、英国船の「ヒマラヤ号」に乗って地中海渡りマルタ島経由フランスマルセイユ3月5日到着した。そこから、リヨン行って3月9日パリ到着した。ここで幕府使節団は「オテル・デュ・ルーブル」というホテル宿泊しパリ市内の病院医学校博物館公共施設など見学した。(滞在期間20日ほど) 文久2年1862年4月2日幕府使節団ドーバー海峡海峡越えてイギリスロンドン入った。ここでも幕府使節団ロンドン市内の駅病院協会学校など多く公共施設見学する万国博覧会にも行って、そこで蒸気機関車電気機器植字機触れる。ロンドンの次はオランダユトレヒト訪問する。そこでも町の様子見学するが、その時偶然にドイツ系写真家によって撮影されと見られる幕府使節団写真4点が、ユトレヒト貨幣博物館所蔵されていた記念アルバムから発見された。その後幕府使節団は、プロイセン行き、その次はロシアに行く。ロシアでは樺太国問題討議するためにペテルブルク訪問するが、そこで幕府使節団は、陸軍病院尿路結石外科手術見学したその後幕府使節団はまたフランスパリ戻り、そして、最後訪問国ポルトガルリスボン文久2年1862年8月23日到着した。 以上、ヨーロッパ6か国の歴訪長旅幕府使節団は、幕府から支給され支度金400両で英書物理書・地理書をたくさん買い込み日本持ち帰ったまた、福沢諭吉今回長旅通じて自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとって未知事柄ある日常について細かく記録した。たとえば、病院銀行郵便法徴兵令選挙制度議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。 また、福沢諭吉今回の旅で日本語をうまく話せる現地フランス青年レオン・ド・ロニー(のちのパリ東洋語学校日本語学科初代教授)と知り合い友好結んだ。そして、福沢諭吉レオン推薦で「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となった。(この時、福沢はその学会自分顔写真をとられている。) 文久2年1862年9月3日幕府使節団は、日本向けてリスボン出港し文久2年1862年12月11日日本品川沖に無事に到着帰国した。 ところが、その時日本幕府使節団予想もしていない状況一変していた。 品川到着した翌日12月12日に、「英国公使館焼き討ち事件」が起こった文久3年1863年3月になると、孝明天皇賀茂両社への攘夷祈願4月には石清水八幡宮への行幸受けて長州藩下関海峡通過アメリカ商船砲撃する事件起こったこのように日本各地過激な攘夷論を叫ぶ人たちが目立つようになっていた。福沢周囲では、同僚の手律蔵東条誰か切られそうになるという事件も起こっていた。この時、福沢諭吉は身の安全を守る為、夜は外出しないようにしていたが、同僚旗本藤沢志摩守の家会合したあとに帰宅する途中浪人鉢合わせになり、居合切り抜けなければ考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けた(逃げた!)こともあった。(この文久2年頃〜明治6年頃までが江戸が一番危険で、物騒な世の中であった福沢はのちに回想している。) 文久3年1863年7月薩英戦争起こったことにより、福沢諭吉幕府仕事忙しくなり、外国奉行松平康英屋敷に赴き、外交文書徹夜翻訳あたったその後翻訳活動進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字単語二文字翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していったまた、禁門の変が起こると長州藩追討朝命下って中津藩にも出兵命じられたがこれを拒否し代わりに以前より親交のあった仙台藩大童信太夫通じて同年秋ごろに塾で諭吉師事していた横尾東作派遣して新聞ジャパンヘラルド』を翻訳し諸藩援助をした。 元治元年1864年)には、諭吉郷里である中津に赴き、小幡篤次郎三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し臨時の「御雇いではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった慶応元年1865年)に始まる幕府長州征伐企てについて、幕臣として立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年1869年)には、熊本藩依頼本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎小幡甚三郎共訳した。また明治2年1869年)、83歳の杉田玄白蘭学草創当時回想して記し大槻玄沢送った手記を、福沢諭吉は玄白の曽孫杉田廉卿、他の有志たちと一緒になってまとめて、『蘭学事始』(上下2巻)の題名刊行した

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渡欧

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文明政治の六条件」の記事における「渡欧」の解説

文久2年1862年)に福澤諭吉竹内保徳遣欧使節団の通訳としてヨーロッパ歴訪した。歴訪記録は『西航手帳』というメモ記されている。帰国の後、福澤は『西洋事情』を出版し欧米文明紹介してベストセラーとなる。この『西洋事情』の初編巻一に、「欧羅巴政学家の説に、凡(およ)そ文明政治称するものには六ケ条の要訣ありと云えり。」として、文明政治の六箇条示されているが、この欧羅巴ヨーロッパ)政学家とは誰を示すのかは不明であった

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渡欧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 01:31 UTC 版)

ウィリアム・スチュワート・ハルステッド」の記事における「渡欧」の解説

1878年4月ニューヨーク病院英語版)で主治医として働き始めた。このとき、親友となるウィリアム・H・ウェルチ英語版)と出会う。このとき、ウェルチベルビュー医科大学研究室をすでに持っていたとされている。 主治医となったハルステッドだったが、アメリカでは医学部卒業生医学キャリア訓練する制度がなかったため、ハルステッド10月渡欧しドイツとオーストリア著名な多く外科医医学者のもとで学んた。その中にはハルステッド導入する鼠径ヘルニア消毒液用いた手術などを考案したエドアルド・バッシーニ(英語版)や、また胃切除手術知られるテオドール・ビルロート弟子のヤン・ミクリッツ・ラデツキー(英語版)、甲状腺切除手術のためのコッヘル鉗子開発した エミール・テオドール・コッヘルもいた。折しもヨーロッパでは癌の研究広まり始めたばかりで、この時のハルステッド経験が後にアメリカで考案する医術影響与えた

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渡欧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:13 UTC 版)

川村清雄」の記事における「渡欧」の解説

明治元年1868年徳川家達奥詰として使えいわゆる将軍御学友)、翌年家達従い静岡移住するちなみに静岡移住士族美男美女番付花競見立相撲」では、前頭に清雄の名が載っている。大久保一翁勝海舟らの斡旋により、明治4年1871年3月徳川宗家給費生として清雄ほか5人で渡米する船中下等船室での待遇悪さに耐えかね、大半日本人客が上等に移った後でも、「見苦しき甚だし」とし、船底寝起きし船内様子スケッチ残している。本来は政治法律を学ぶための留学だったが、渡米前後に周囲から画才認められ大久保一翁旅立つ清雄に「迷わなくて何でも一つ是非やってこんぢゃならん。お前は絵が好きだから絵だけやって来ていいから邪道迷わないようにしろ」と後押しされた。後に清雄の妹房子結婚する外山正一勧めもあって画家になることを決意する日本公使館書記官画家のチャールズ・ランマンに学び、この時、ランマン宅でホームステイをしていた津田梅子看病をしたが、麻疹うつされ困ったという。 明治6年1873年パリへ転じアレクサンドル・カバネル弟子・オラース・ド・カリアス(Horace de Callias)等に学びアカデミズム歴史画制作有様とその思想吸収して行った思われるこの年明治政府海外留学生の一斉帰国命じたが、川村私費留学生として残る。また翌年頃に、ヴィル=ダヴレーに住むカミーユ・コロー訪問したとも言われ、後の清雄の風景画その影響を見ることが出来る。明治9年1876年2月イタリア移りヴェネツィア美術学校入学する同年パリでは清雄と一緒に生活し一足先に帰国していた宇都宮三郎が、紙幣頭の得能良介推薦してくれたおかげで、清雄は紙幣寮官費留学生として採用され月給10円年間授業料として1000円給料受けられることになった当地では留学生としての責務を果たすべく基本図像画・建築図・装飾図案コース履修し辞令従い日本定期的に作品送っている。その傍らヴェネツィア派巨匠たちに学び、特にティエポロ崇敬したという。異国学校生活にも溶け込み、後にヴェネツィア現代生活と風景着目した絵を描いて名を馳せたエットレ・ティート(Ettore Tito)や、社会批判満ちた作品名声得たオレステ・ダ・モリン(Oreste da Molin)と親交を結ぶ。清雄は後年までヴェネツィアでの生活を懐かしみ、日本帰った後もその情景をしばしば描いた明治14年1881年12月14日再三留学延期願い却下され帰国する。その去り際師匠格として交流があったスペイン画家・マルティン・リコ・オルテガ(es:Martín Rico)から、「日本趣味失わないように」と餞の書簡渡されている。リーコはジャポニズム好み、清雄に「汝は日本人である。日本人は実に意匠富んで、筆に器用なものを持っている。それを捨てて無闇に西洋取りたがるのは間違いだ。日本人日本のを建ててゆかなくちゃいけない」と語ったこうしたリーコの言葉を清雄は後々まで自問し、「日本人らしい油画とは何か」という壮大なテーマ終生取り組むことになる。

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