渡欧体験と『旅愁』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:00 UTC 版)
1935年(昭和10年)年末には外遊が決定していたが、横光は「外国へなぞ行きたくない」と中山義秀にかたり、中山は、文壇で独走する横光にとって「文壇から追っ払わようとしている、そんな予感がしていたからではなかったろうか」と述べている。1936年(昭和11年)1月、中野重治が銀座で横光を見た時も孤影悄然として「山奥から出てきた大きな山猿のように寂しく見えた」という。 1936年2月18日、東京駅での見送りには三重にも列ができ、女優高杉早苗らが花束を送った。2月20日、39歳の横光は川端、中山、画家の佐野繁次郎、姉の静子らに見送られ、神戸を出航した。半年間、東京日日新聞ならびに大阪毎日新聞ヨーロッパ特派員としての渡欧だった。ベルリンオリンピック観戦記と外遊記が目的であった。行きの船は日本郵船の箱根丸であったが、そこでは高浜虚子や宮崎市定が同乗していて、虚子は句会をひらいていたため、横光も参加した。虚子は「横光君は米袋のやうなだぶだぶしたセビロを着ていた。其について横光君は弁解していた。これは米袋で拵えたのであるが、涼しくてよいと言っていた」と『巴里に同行して』で回想している。セメントを入れるインドの麻袋製であった。上海では魯迅や山本実彦に会った。出発直後に二・二六事件が起こり驚くが、やがて「陸のことは陸のこと」と思うようになった。事件の報せは香港に向かう台湾沖で受けた。シンガポール、ペナン、コロンボ、カイロから地中海経由の1か月の船旅を経た。 1936年3月27日にフランスのマルセイユに着いた。上陸後は船客の年長者だけが荷物を調べられて、ほかの船客は横光も含めて調べられなかったので、「フランス人の最初の自由さをわれわれは見たのである」とヨーロッパの第一印象を横光は後に書いた。マルセイユではノートルダム・ド・ラ・ガルドを訪れ、血まみれのキリスト像に衝撃を受けた。『旅愁』では「この国の文化にもやはり一度はこんな野蛮なときもあったのか」「しかも、この野蛮さが事物をここまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかった」「このリアリズムの心理からこの文明が生まれ育った」と小説の矢代の思念として書いている。同日夕刻には街角で、疲れて沈み込んだ群衆を目撃して、「これがヨーロッパか。―これは想像したより、はるかに地獄だ」と書いている。 翌日の3月28日にパリに向かうが、車窓からの美しい田園風景を堪能しながらも、「なお植民地の勃興を考えて」いたという。パリで横光と交流した岡本太郎は「横光さんは憂鬱に打ちのめされて青黄色い顔をしていた」と回想している。しかし岡本がフランス語のできない横光を助けると、憂鬱、孤独感が和らげられ、横光は「すっかりパリファンになった」あと、「酔ったように街を歩き廻った」という。小説『旅愁』に出てくる欧化主義者久慈のモデルは岡本であるといわれる。パリで横光はオーギュストコント通りについて「夜のこの通りの美しさは、神気寒倹たるものがある」とし、シャンゼリゼについては俗っぽいが、「文化の最高に位置するものは何となく俗っぽくなければ価値を失うものだ。私は好みを殺してここを最高と認める」と書き、コンコルド広場は「人工の美の極を尽くしたもの」と賞賛する一方、「こんな所は人間の住む所じやない」とも書いている。横光は岡本に「パリにはリリシズムがない」といったり、「パリにはリアリズムがない」といい、ラテン文化の都の肌理と日本文化の肌理との絶望的な食い違いに「絶望した横光さんは純粋であり、繊細であった」と回想している。5月3日フランス下院選挙で人民戦線派が過半数を獲得し、5月26日にはストライキが発生、横光はこれについて『旅愁』でも描いている。6月6日にはレオン・ブルム人民戦線内閣が成立し、7月17日にはスペイン内戦が勃発した。パリ滞在中、5月4日から5月8日までイギリスに旅行する。横光はカルチャーショックを受け、一時神経衰弱になった。「ここには豊かな知識と性があるだけだ。感情のある真似をしたくてはならぬ悩みーこれがパリーの憂鬱の原因である」と書いている。また横光は「デカルトに始まった都市国家の智的設計は、ヨーロッパから個性を奪ったのだ。この幾何学の勝利は人心の中に於いてでも暴威を逞しくして近代に及んだ」と随想している。6月12日には岡本の紹介でダダイスムの創始者である詩人トリスタン・ツァラを訪問し、日本は地震国で自然力から襲われるために日本独自の自然に対する考え方があると述べるなどした。このほか、ルーアン、オーストリア、イタリアなどにも旅行で赴くが、パリに帰るたびに心が落ち着くほどパリの魅力を感じ取ってもいた。チロル、ウィーン、ブダペスト、フィレンツェなどを訪ねた。 ベルリンは清潔で、「日本の市街はその汚さのために何といふ豊富な自由があることだらう」と感じた。ベルリンオリンピック観戦記は東京日日新聞で連日報道され、見出しには「花紅く旗翻る 伯林祭 楽園は戦前の静けさ」「日本軍益々活躍」「玉砕期す」といった国家民族間の戦争によって表現されていた。8月にベルリンオリンピック観戦後、モスクワからシベリア経由で1936年8月25日に帰国した。 8月26日東京日日新聞夕刊には「帰朝した横光利一氏の談 オリムピックを機に日本の文化は十年飛躍しよう 今にして想ふ日本女性の美」と題して門司のホテルでの写真とともに掲載され、フランスは左翼、ドイツは右翼だが、右翼も左翼も紙一重であり、大部分は利益によって動いていること、アンドレ・ジッドから招待されたが都合で会えず残念であったこと、オリンピックでは民族的差別観念がなかったことなどが報じられた。帰国直後の9月、温海温泉に一か月滞在する。帰国後、横光は「あれほど大都会の中心を誇っていた銀座は全く低く汚く見る影もなかった」「内充して外に現れることが形式の本然であるならまだまだ日本の内側は火の車だ」と、日本の「貧寒さ」について『厨房日記』で書いている。こうした日本批判は後にも先にもないといわれる。 この旅の経験をもとに、翌1937年(昭和12年)4月から1946年(昭和21年)1月まで11年ほどかけて『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に「旅愁」の連載をはじめる(未完)。挿画は藤田嗣治。『旅愁』を書くために横光は「門を閉じて客との面会を謝絶し、この作品に心血をそそいだ」(中山義秀)といわれた。『旅愁』では「西洋が二十世紀だからといって、東洋もそうだとは限らない」「そこを何だって、西洋の論理で東洋が片付けられちゃ、僕らの国の美点は台無しですから、果たしてそんなに周章てて美点を台無しにすべきかどうかという、そこの疑問から今のすべての論争が発展したり、押し込められたり、引き延ばされたりしている始末」と書かれて、小説のなかで矢代と千鶴子の結婚を妨げる要因に宗教の対立が描かれ、カトリック信者である千鶴子に対して、矢代は「カソリックをも赦し、むしろそれを援ける平和な寛大な背後の力」として仏教でも神道でもなく古神道を見いだしている。西洋の思想と日本の古神道との対決を志したこの長編は、盧溝橋事件の勃発までを書いたところで未完に終わった。 同時期に永井荷風は『濹東綺譚』を連載しており好評を博していた。横光はこれに対抗して『旅愁』を書いていたが、『濹東綺譚』連載が終了すると、『旅愁』の連載を中止した。 また『欧州紀行』を発表したが、読者の異国趣味を満足させるものではなく、アフォリズム的な表現をちりばめたもので発表当時不評判であった。 1937年12月、伊勢神宮に参拝。
※この「渡欧体験と『旅愁』」の解説は、「横光利一」の解説の一部です。
「渡欧体験と『旅愁』」を含む「横光利一」の記事については、「横光利一」の概要を参照ください。
- 渡欧体験と『旅愁』のページへのリンク