人民戦線内閣とは? わかりやすく解説

人民戦線内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 09:24 UTC 版)

レオン・ブルム」の記事における「人民戦線内閣」の解説

ブルムの人民戦線内閣が抱えた課題多岐にわたった国内的に何よりも世界恐慌後の不況からの脱出望まれており、一方で労働者の権利擁護しつつ右派勢力牽制する必要があった。対外的には、再軍備宣言においてラインラント進駐軍事大国化を進めドイツと、アサーニャ率い人民戦線政府フランシスコ・フランコ将軍率い反乱軍との間で内戦となっていたスペイン対し適切な外交政策をとらなくてはならなかった。だが、これらの課題短期間解決するのは困難であったブルム通貨安競争対策としてアメリカイギリス三国通貨協定を結ぶ一方で金本位制離脱しフラン切り下げ大規模な公共事業行い軍事産業にも多く予算投入して国防充実させ不況からの脱出図ったまた、週40時間労働制、2週間有給休暇制(バカンス)といった労働政策充実進めたこうした一連の政策は「ブルム実験」などとも称された。また、反共反ユダヤ掲げファシズム的な団体いくつか解散させた。失業率激減したものの、パリ万博労働需要軍備拡張などによるものとされ、ヨーロッパで最も高い物価であることや労働運動急進化避けて金流出が起きるなどの問題があった。また、右派勢力は完全に衰えたわけではなくユダヤ系ブルムに対して個人的な言論攻撃行われた外交でも、人民戦線内閣内での対立構図浮き彫りになっていった。スペイン内戦への干渉望まない急進社会党と、同じ(スペイン人民戦線への支援訴え共産党の間の意見の相違収拾することは不可であったまた、労働政策尽力したことは、中産階級支持基盤とする急進社会党離反招いた。こうしてブルム退陣余儀なくされた。 その後成立した急進社会党内閣にも副首相として入閣するが、急進社会党共産党弾圧を図るにいたってブルム社会党倒閣支持した1938年ブルムは再び首相になるが、1ヶ月とたたずに内閣崩壊したこうした政治的混迷収拾されないまま、フランス第二次世界大戦突入した

※この「人民戦線内閣」の解説は、「レオン・ブルム」の解説の一部です。
「人民戦線内閣」を含む「レオン・ブルム」の記事については、「レオン・ブルム」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「人民戦線内閣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「人民戦線内閣」の関連用語

人民戦線内閣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



人民戦線内閣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのレオン・ブルム (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS