人民戦線内閣
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ブルムの人民戦線内閣が抱えた課題は多岐にわたった。国内的には何よりも世界恐慌後の不況からの脱出が望まれており、一方で労働者の権利を擁護しつつ右派勢力を牽制する必要があった。対外的には、再軍備宣言においてラインラント進駐、軍事大国化を進めるドイツと、アサーニャ率いる人民戦線政府とフランシスコ・フランコ将軍率いる反乱軍との間で内戦となっていたスペインに対し、適切な外交政策をとらなくてはならなかった。だが、これらの課題を短期間で解決するのは困難であった。 ブルムは通貨安競争対策としてアメリカやイギリスと三国通貨協定を結ぶ一方で金本位制を離脱し、フランを切り下げ、大規模な公共事業を行い、軍事産業にも多くの予算を投入して国防を充実させ不況からの脱出を図った。また、週40時間労働制、2週間の有給休暇制(バカンス)といった労働政策の充実を進めた。こうした一連の政策は「ブルムの実験」などとも称された。また、反共・反ユダヤを掲げるファシズム的な団体をいくつか解散させた。失業率は激減したものの、パリ万博の労働需要や軍備拡張などによるものとされ、ヨーロッパで最も高い物価であることや労働運動の急進化を避けて金流出が起きるなどの問題があった。また、右派の勢力は完全に衰えたわけではなく、ユダヤ系のブルムに対して個人的な言論攻撃も行われた。 外交面でも、人民戦線内閣内での対立構図が浮き彫りになっていった。スペイン内戦への干渉を望まない急進社会党と、同じ(スペイン)人民戦線への支援を訴える共産党の間の意見の相違を収拾することは不可能であった。また、労働政策に尽力したことは、中産階級を支持基盤とする急進社会党の離反を招いた。こうしてブルムは退陣を余儀なくされた。 その後に成立した急進社会党内閣にも副首相として入閣するが、急進社会党が共産党の弾圧を図るにいたってブルムら社会党は倒閣を支持した。1938年、ブルムは再び首相になるが、1ヶ月とたたずに内閣が崩壊した。こうした政治的混迷が収拾されないまま、フランスは第二次世界大戦に突入した。
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