生い立ち及び初期の経歴
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「ルネ・コティ」の記事における「生い立ち及び初期の経歴」の解説
1882年3月20日にセーヌ=マリティーム県ル・アーヴルに誕生する。1902年にカーン大学を卒業し、法学と哲学の学位を取得する。大学卒業後は郷里に戻り、海洋法と商法専門の弁護士として働く。 その後急進社会党(急進党)に入党して政界入りし、1907年に地区委員に選出される。翌1908年には共和左派に鞍替えし、ル・アーヴル地方議会議員に立候補、当選する。1913年にセーヌ・アンフェルール県(現在のセーヌ・マリティーム県)県議会議員に当選し、以後1942年まで在職し、1932年に副議長も務めた。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、コティはフランス軍に志願して第129歩兵連隊に入隊し、ヴェルダンの戦いなどに参加した。戦後の1923年にジュール・ジークフリートに代わってセーヌ=マリティーヌ県から下院(代議院)議員に当選する。この時期、急進党を離党し共和主義連盟に入党。1930年12月13日から23日まで、ごく短期間テオドル・ステーグ内閣で内務次官を務める。 1936年に元老院議員(上院議員)となる。コティは、1940年7月10日にフィリップ・ペタン元帥に全権を付与するのに賛成し、結果としてペタンを首班とするナチス・ドイツの傀儡政権ヴィシー政府樹立を助けた議員の一人であった。戦時中は、政治活動を控えたが、戦後、復権した。
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生い立ち及び初期の経歴
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「ヴァンサン・オリオール」の記事における「生い立ち及び初期の経歴」の解説
1884年8月27日にオート=ガロンヌ県ルヴェルにて、肉屋の息子として誕生する。ルヴェル・カレッジで法律を学び、1904年にツールーズで弁護士を開業する。この間社会主義者となり、ル・ミディ・ソシアリスト(社会主義者の南フランス、Le Midi Socialist)の共同設立者となる。これが1908年のことで、この時点でオリオールは、トゥルーズのジャーナリスト協会の会長となっていた。 1914年5月にミュレから国民議会議員に立候補して当選し、以後1940年6月まで国民議会議員となる。1925年5月にはミュレ市長に選出され、1947年1月まで務める。1928年にオート=ガロンヌ県議会議員に選出され、統一社会党分裂後は新たな社会党(旧社会党)の創設に参加し、党のスポークスマンや財務を担当した。1924年に代議院財務委員長を経て、1936年6月にレオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣で財務大臣として初入閣する。蔵相となったオリオールはドルに対してフランを30パーセント切り下げたが、一層の経済不安となった。ブルムはフランの切り下げと産業統制を主張したが、1937年6月に急進社会党のカミーユ・ショータンと首相を交代する。オリオールはショータン内閣の法相、1938年3月にブルムによる第二次人民戦線内閣でコンセイユ・デタ(国務院)調整相を短期間務めるが、同年4月に急進社会党のエドゥアール・ダラディエ内閣が成立し、オリオールは閣僚を辞任した。 1939年9月に第二次世界大戦が始まり、フランスはナチス・ドイツに敗北して占領される。1940年7月10日にヴィシーで国民議会が開催され、フィリップ・ペタン元帥に全権を付与するが、オリオールは反対票を投じ、一年余り自宅軟禁に置かれる。1942年10月に脱出に成功し、レジスタンス運動に参加する。1943年10月にはイギリスのロンドンへ亡命し、シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスに参加して国民解放フランス委員会の社会党代表に選出された。1944年7月にアメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開催された国際連合通貨金融会議のフランス代表としてアメリカに渡り、ブレトン・ウッズ協定を締結した。
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