生い立ち・医人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:48 UTC 版)
佐賀藩儒医の西岡春益の長男として生まれる。切米140石 (内加米5石)。なお、父の西岡春益が調合に加わった佐賀藩の名薬『野中烏犀圓』は、滋養強壮・肉体疲労薬として現在も使われている。 藩校弘道館で学んだ後、万延・文久年間に京・大阪に遊学する。安政6年3月(1859年)から、適塾にて学ぶ。文久2年(1862年)芦島で行われた解剖に、第二胸部解剖担当として参加する。。 鳥羽・伏見の戦いの際には、負傷者であれば誰彼かまわず治療していたため、幕府役人から攘夷派の一味と疑われ、佐賀藩に帰国することになったという。 霞が関にある「江藤新平君遭難遺址碑」によれば、江藤新平が明治2年(1869)年佐賀藩邸の外で佐賀藩の下級武士に襲われた時に、阪部長照・荒木博臣(森鴎外の後妻である森志げの父親)と共に助けに入っている。 戊辰戦争の際に、羽州へ出張。参謀(軍監)を務め、北越秋田戦争を戦ったとみられる。
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