生い立ち及び幼年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 03:43 UTC 版)
「ジェリー・ガルシア」の記事における「生い立ち及び幼年期」の解説
ガルシアの父側の先祖はスペイン北西部のガリシア州出身であり、母側の先祖はアイルランド及びスウェーデン出身であった。ガルシアは1942年8月1日、カリフォルニア州サンフランシスコでホセ・ラモン「ジョー」ガルシアおよびルース・マリー「ボビー」(旧姓クリフォード)ガルシア夫妻の間に生まれる。母親もサンフランシスコ生まれであった。両親は作曲家のジェローム・カーンに因んで彼を名付けた。ジェローム・ジョンは夫妻の二番目の子どもで、兄のクリフォード・ラモン「ティフ」は1937年に生まれていた。クリフォードの誕生直前に、父親とそのパートナーはサンフランシスコのダウンタウンにあるビルを借りてバーに改装したが、これは届け出の無い事業であったため、ホセはミュージシャン組合から排斥された。 ガルシアは幼い頃から音楽の影響を受け、子ども時代に多くのピアノレッスンを受けた。父親はプロのミュージシャンを引退し、母親はピアノの演奏を楽しんだ。父親の家族(1919年にスペインから移住した)は増え、しばしば一緒に歌った。 ガルシアが4歳のとき、一家はサンタクルーズ山脈で休暇を過ごしていたが、ガルシアは事故で右手中指の2/3を失った。ガルシアと兄のティフは木材を切り刻んでいた。ティフが斧を持ち、ガルシアは木を押さえていた。ガルシアの手が木の近くを押さえていたため、ティフは誤って指を切り落としてしまった。母親はすぐに彼の手をタオルで包み、父親は近くの病院まで30マイル以上を運転して行った。数週間後、事故以来自分の指を見ていなかったガルシアは、風呂で包帯を外し、そのほとんどが失われていたことに驚いた。ガルシアは後に、近所の子どもにそれを見せびらかし、自らのアドバンテージに利用したことを打ち明けた。 ガルシアは幼い内にいくつかの悲劇を経験した。指のほとんどを失ってから1年足らずで父親が死去した。1947年、一家はカリフォルニア州北部のアーケータ近くで休暇を楽しんでいたが、父親はシックスリバーズ国有林にあるトリニティ川でフライフィッシングを行った。川に入って間もなく彼は岩場で滑り、深い急流に落ちてしまった。目撃した少年たちがすぐに助けを探し、近くにいた二人の漁師を呼んだ。父親は川から引き上げられたが、既に溺れていた。ガルシアは後に、父親が川に落ちるのを見たと主張したが、「A Long Strange Trip: The Inside Story of the Grateful Dead」の作者デニス・マクナリーは、そういった事実は無く、代わりにその話を何度も聞かされたことで記憶が形成されたと断言している。「Garcia: An American Life」の作者ブレア・ジャクソンは、ホセの死を記述した新聞記事が現場にいたとするガルシアについて言及をしなかったことや、彼を娘と誤認したことから、マクナリーの主張を裏付けている。 事故の後に母親は夫のバーを引き継ぎ、完全な所有権を得るためにパートナーから権利を買い取った。その結果、彼女はフルタイムで働くこととなり、生活のためにジェリーと兄を母方の祖父母、ティリーとウィリアム・クリフォードの元に送った。祖父母と暮らした5年間で、ガルシアは地元の小学校、モンロー・スクールに入学、数多くの自律性を楽しんだ。学校でガルシアは、3年生の先生に芸術的な才能について大いに激励された。彼女を通してガルシアは「人生において創造的な人間であることが生存可能性であること」に気づいた。ガルシアによると、彼が祖母に影響されてブルーグラスやカントリーミュージックに目覚めたのはこの頃だったとし、祖母はグランド・オール・オプリを毎週聴いて楽しんでいたという。しかしながら兄のクリフォードによると、それは事実でないと固く信じていた。「すべて(それ)を空想してたんだ...彼女はオプリに行ったとは思うが、ラジオでそれを聞く事は無かったよ」ガルシアが最初の弦楽器であるバンジョーを弾き始めたのはこの時期であった。 1953年、ガルシアの母親はウォリー・マツジーウィッツと結婚した。その後ガルシアと兄は母親と新しい義父の元に戻った。しかしながら、当時彼らが住んでいたエクセルシオール地区近隣には無法者達がいたとの評判で、一家はメンローパークに転居した。メンローパークでガルシアは人種差別と反ユダヤ主義に遭遇する。彼は直ちにそれらに嫌悪感を抱くようになった。同年、彼は兄からロックンロールとリズムアンドブルースを教えられ、レイ・チャールズやジョン・リー・フッカー、B.B.キング、ハンク・バラード、後にはチャック・ベリーを聴くようになった。クリフォードは、しばしば彼のお気に入りの曲のボーカルを記憶し、その後、ガルシアにハーモニー部分について学ばせた。ガルシアは後にこれが初期の耳のトレーニング(英語版)になり、音楽活動に貢献したと考えた。 1957年中頃からガルシアはタバコを吸い始め、それはマリファナへの呼び水となった。ガルシアは後に、初めてマリファナを吸ったことを追想した。「僕と友人は2本のマリファナを持って、サンフランシスコ山のふもとの丘に行った。そしてそのマリファナを吸い、ハイになって笑い、吠え、おかしな真似をしながら通りを下り、まさにひどい時間を過ごした。」この頃、ガルシアはサンフランシスコ芸術大学(英語版)で美術のプログラムに参加し、ビジュアルアートに対する興味を急成長させた。当時の教員にはウォリー・ヘドリックがいたが、彼は1960年代に名声を上げた。彼は授業において、ガルシアの素描や絵画の才能についてしばしば激励した。 同じ年の6月にガルシアは、地元のメンロー・オークススクールを卒業した。彼はその後家族と共にサンフランシスコに戻り、新しく建てられたバーの上のアパートに暮らした。ダウンタウンにあった古いバーは高速道路の入口が造られたため取り壊されていた。2ヶ月後、ガルシアの15歳の誕生日に母親はアコーディオンを買い与えたが、彼はひどく失望した。ガルシアは多くのブルースミュージシャン、特にチャック・ベリーとボ・ディドリーに長くあこがれていた。当時の彼の希望はエレキギターを手に入れることであった。何度かの嘆願の後、母親は地元の質屋でアコーディオンをダンエレクトロと小型アンプに交換した。ガルシアの継父は楽器に多少熟練しており、彼のギターを変わったオープンチューニングに合わせることを手伝った。 デンマン中学校で過ごした短い期間の後、ガルシアは1958年にバルボア高校の十年生に編入した。そこで彼は授業をサボったり喧嘩をしたりと、しばしばトラブルを起こした。その結果、1959年に母親はガルシアをトラブルから避けるため再び一家と共に、サンフランシスコの90マイル北にあるソノマ郡カサデロに転居した。この転居はガルシアにとって良い結果とはならなかった。最も近い学校であるアナリー高校はセバストポリにあり、彼は30マイルの距離をバスで通学しなければならず、それが彼をより一層不幸にした。しかしガルシアは、学校で「コーズ (Chords)」というバンドに加わった。バンドはコンテストに参加して優勝し、その報酬として彼らはビル・ジャスティスの「ラウンチー」を録音した。
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