人民戦線の発足
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「エストニアの独立回復」の記事における「人民戦線の発足」の解説
そしてこの総会の直後、13日のETV(英語版)の討論番組『モトレメ・ヴェール』(et) 内で、サヴィサールはペレストロイカの支持を目的とした運動「エストニア人民戦線(ロシア語版)」(ラフヴァリンネ)の結成を呼びかけた。そしてそのままスタジオ内で、弁護士レンビット・コイク (et) や漫画家ヘインツ・ヴァルク(エストニア語版)など他の出演者・テレビ局員16人とともに、人民戦線のマニフェストの作成・署名に至った。翌14日にはタリンでのこの動きにタルトゥ大学教諭のマリユ・ラウリスティン(エストニア語版)が呼応し、人民戦線設立の機運はエストニア全土へと広がっていった。 この呼びかけは、サヴィサールの個人的野心や、独立問題を経済や連邦内主権の問題にすり替えようとした動きとも見做される。しかし、体制内反対派としての支持を得た人民戦線は、それから2か月足らずで4万人のメンバーと全国800か所の支部を擁するに至った。さらにこの動きは他の共和国にも影響を与え、ウクライナ・モルダヴィア・リトアニア・ラトビアでも、サユディスやラトビア人民戦線(ラトビア語版)など、エストニア人民戦線と同様の文化的民主団体が組織されていった。
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