マニフェストの作成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 02:24 UTC 版)
「オステンド・マニフェスト」の記事における「マニフェストの作成」の解説
マーシーはスーレに、ブキャナンおよび駐仏大使のジョン・Y・メイソンと、アメリカ合衆国の対キューバ政策に関して会合を持つよう提案した。マーシーは以前スーレに宛てて、もしキューバ買収の交渉ができないならば、「次の望ましい目標、すなわちキューバをスペインおよびヨーロッパの列強の手から分離することに傾注するとよい」と記しており、この言葉遣いはスーレの計画の中に採用された可能性がある。著作家のデイビッド・ポッターとラーズ・シュルツはどちらも、マーシーの謎めいた表現にかなりの曖昧さがあると指摘しており、サミュエル・ベミスは、マーシーがキューバ独立に言及した可能性は認めたが、マーシーの真の意図を知ることは不可能なことも認めている。いずれにしても、マーシーは6月にピアース政権がキューバに関して宣戦布告するという考えを捨てたとも記していたが、ロバート・メイは、「会合の指示は非常に曖昧なので、ブラック・ウォリアー事件以降マーシーがスーレに宛てた多くの手紙が好戦的なものであり、大使達がピアース政権の意図を読み間違えた」と記している。 ウィキソースにオステンド・マニフェストの原文があります。 会合の場所について3人の外交官に小さな意見の不一致があった後に、1854年10月9日から11日までベルギーのオステンドで会し、続いて会議の報告書を準備するために1週間、エクス・ラ・シヤペルに移った。その結果作成されオステンド・マニフェストと呼ばれるようになる報告書は、「キューバが北アメリカ共和国の一員となることが必要であり、連邦が天の配剤になる温床であるところの諸州の大きな家族に属するのが自然である」と宣言した。 このマニフェストに述べられたキューバ併合の理由付けの中でも、アメリカ合衆国が介入しないままでキューバにハイチのような奴隷革命が起こる可能性に関する怖れが特筆される。このマニフェストでは、キューバ問題に行動を起こさなければ、「しかし、我々は我々の義務に対して臆病者であり、我々の勇敢な先祖に値しないものであり、我々の子孫に対して根本的な裏切りを犯すものである。キューバがアフリカ化され、第二のサントドミンゴ(ハイチ)になることを認めるべきだろうか。それは白人種に対する恐怖であり、我々自身の隣接する海岸にその火が及び、我々を現実に重大な危険に曝して、我が連邦の構造を費消させるものである。」と訴えていた。その多くがスペインによって広げられた人種的脅威から、キューバで可能性のある黒人暴動と、それが「野火のように」アメリカ合衆国まで広がってくることに関して、国内の緊張と心配をもたらすとしていた。かくしてこのマニフェストは、スペイン植民地が拒んだ場合に、アメリカ合衆国がキューバをスペインから「奪うことが正当化される」と明記していた。 スーレは元ルイジアナ州選出のアメリカ合衆国上院議員であり、カリブ海と中央アメリカにアメリカ合衆国の影響力を及ぼすことを求めた「若いアメリカ運動」の一員だったが、オステンド・マニフェストの主たる骨格を作った者とされている。ただし、経験を積み慎重な性格のブキャナンがこの文書を執筆し、スーレの過激な表現を和らげたと信じられている。スーレは当時のアメリカ合衆国の外に南部の影響力を広げることを熱心に求めており、マニフェスト・デスティニーを単純に信仰し、アメリカ合衆国によって「大陸全体とその付属物を吸収できる」と予告していた。メイソンはバージニア州生れであり、この文書に表現される感情を以前から抱いていたが、後にその行動を後悔することになった。ブキャナンはその拡張主義的な傾向にも拘わらず正確な動機は不明なままであるが、大統領になりたいという野望に動かされたという説が示唆されてきた。事実、ブキャナンは1856年の大統領選挙で当選した。歴史家ジェイムズ・ローズは1893年に「この3人の性格を計算すると、スーレが後に暗示したように、その仲間を丸め込んだという結論には効し難いものがある」と記すことになった。 大胆なスーレはこの会談のことを秘密にしなかったので、マーシーはそれを悔やんだ。ヨーロッパとアメリカ合衆国双方の新聞は、会談の報告書が無かったとしてもそれに気付いていたが、当時は戦争と中間選挙のことで一杯だった。中間選挙では民主党が議会で少数党になり、新聞の論説はピアース政権の秘密主義を攻撃し続けていた。少なくとも「ニューヨーク・ヘラルド」1紙は、歴史家のブラウンが「オステンドでの結論の真実に迫る報告」と呼ぶものを掲載し、「ピアース大統領はそれが情報漏えいに基づくのではないかと怖れ、事実そうだった可能性がある」としている。ピアースはそのような噂を確認することで政治的な反動を怖れ、1854年末の議会における一般教書演説でもそのことに触れなかった。このことで、下院における反対派がマニフェストの公開を要求することになり、その制作から4か月後に全文公開されることになった。
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