マニフェストの公開以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 02:49 UTC 版)
「セオドア・カジンスキー」の記事における「マニフェストの公開以降」の解説
マニフェストが新聞に掲載され、ユナボマーの身元特定につながる情報に100万ドルの報奨金がつけられたため、一日に千件を超える電話がFBI設置のホットラインに寄せられる日々が何か月も続いた。ユナボマーから送られたとされる手紙もタスクフォースには大量に届き、警察は際限なく集まる容疑者の手がかりの検討に追われた。その一方で、カジンスキーの弟デイヴィッドはシカゴの私立探偵スーザン・スワンソンに依頼し、兄の行動について慎重に調査を進めていた。ディヴィッドは後にスワンソンが集めた証拠のとりまとめと、FBIへの情報提供をワシントンD.C.の弁護士トニー・ビシェーリエに依頼している。FBIが関心を持つ可能性は薄いだろうと踏んでいたのである。彼が恐れていたのは、FBIに抵抗したルビー・リッジ(英語版)やウェーコ包囲戦のような末路を兄が迎えることで、FBIが兄と接触しようとすればそこに暴力が伴いかねないと感じて、兄を守ろうとしたのだった。 1996年初め、元FBIの人質交渉人で犯罪プロファイラーのクリントン・R・ヴァン・ザントにビシェーリエと協力関係にある捜査官が接触している。ビシェーリエは捜査官を介して、デイヴィッドが兄から受け取った、手書きの手紙をタイプライターで清書した原稿とカジンスキーのマニフェストとの比較を依頼した。ヴァン・ザントの最初の分析では、書いたのが同一人物である可能性は60パーセントよりは上というところだった。マニフェストは公になって半年は経っていたということもある。ヴァン・ザントが指揮した二度目の分析チームは、その可能性はもっと高いと判断した。そのためビシェーリエは君の依頼人はすぐにでもFBIと連絡をとったほうがいいと薦められた。 1996年2月、ビシェーリエはテッド・カジンスキーが1971年に書いた論文のコピーをFBIのモリー・フィンに提供した。フィンはさらにこの論文をサンフランシスコに本部を置くタスクフォースに回している。本部では捜査員のジョエル・モスとキャスリーン・パケットもこの論文に目を通したが、一読して文章に類似性を見出したのは、FBIの犯罪プロファイラー、ジェームズ・R・フィッツジェラルドだった。言語解析にかけると、論文とマニフェストの著者はほぼ間違いなく同じという結果も出た。爆弾事件とカジンスキーの来歴から垣間見える事実とも総合した上で、この分析結果を根拠に、捜査全体の責任者であるテリー・ターチーは、逮捕令状に署名を行った。 デイヴィッド・カジンスキーは、匿名のままでいることを希望していたが、すぐにFBIに特定され、数日のうちにワシントンD.Cで弁護士立ち会いの元、妻と一緒にFBIの捜査員から聞き取りを受けた。事情聴取が何度か行われ、その時にデイヴィッドは兄が書いた手紙を当時の封筒とともに提出している。これによってFBIは切手の消印から、テッドの行動を時系列にそって以前より詳しく把握できるようになった。デイヴィッドは、行動分析に関する特別捜査官のキャスリーン・パケットと互いに尊敬し合う信頼関係を築き、カジンスキーが住む小屋に対する捜査令状が執行されるまでのほぼ2ヵ月で、ワシントンD.C.だけでなくテキサス州、シカゴ、スケネクタディ (ニューヨーク州) と場所を変えて面談を繰り返した。 デイヴィッドもかつては兄を尊敬し、手本にもしていたが、サバイバル生活のような暮らしにはついていけなかった。FBIには匿名を条件に捜査へ協力しており、兄に誰が情報提供したのか分からないようにするという約束も得ていたのに、彼の身元は1996年4月初頭にCBSニュースにリークされてしまった。CBSのニュースキャスター、ダン・ラザーから確認の電話を受けたFBI主任捜査員のルイス・フリーは、CBSイブニングニュースで公開するまで24時間待つように要望している。FBIは捜査令状を急ぎ、モンタナ州の連邦裁判所からようやく許可をとった。FBIは内部リークについても調査を行ったが、リーク元については特定することができなかった。 テッド・カジンスキーをマニフェストの作者とすることについてFBI内部も一枚岩ではなかった。捜査令状の許可にあたっては、マニフェストは別の人間が書いたものだと考えている専門家も多い、との留保があった。
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