ピアース政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 02:24 UTC 版)
「オステンド・マニフェスト」の記事における「ピアース政権」の解説
ピアースはその就任演説で「私の政権の政策は、拡張から来る如何なる臆病な悪の前兆にも支配されない」と述べた。奴隷制度は決められた目標ではなく、ましてやキューバの名前すら出ない中で、南北戦争前の時代の党の構造は、北部人に南部人の利益を訴えることを求めるので、ニューハンプシャー州出身のポークは奴隷州としてキューバを併合することを支持した。この目的のために拡張主義者をヨーロッパ中の外交ポストに指名し、特にキューバ併合の声高な提唱者であるピエール・スーレをスペインに送り込んだ。ピアース内閣で北部人といえば、ブキャナンのようなドウフェイス(南部に同調的な北部人)仲間であり、ブキャナンが民主党全国大会で大統領候補になれなかった後で駐英大使に指名した。また国務長官のウィリアム・マーシーもドウフェイスであり、その指名は、党内で緩りと慎重な拡張を好む派閥である「オールドフォギー」(頭が古い人の意)を宥めようとする試みでもあった。 1854年3月、ニューヨーク市からアラバマ州モービルに向かう通常の交易ルートにあった蒸気船ブラック・ウォリアーがキューバのハバナ港に寄港した。この船が船荷目録を提出できなかったとき、キューバの役人が船、積荷および乗組員を拘束した。いわゆるブラック・ウォリアー事件であり、アメリカ合衆国議会はアメリカの権利に対する侵害だと見なした。スーレがスペインに対して船を返還するよう発行した中身の無い最後通告は、両国の関係をさらに悪くするだけであり、スーレは1年間近くキューバ獲得の議論を封じられた。この事件は平和的に解決されたが、南部の拡張主義の勢いを増させることになった。 一方でマニフェスト・デスティニーの原理は時代が進むに連れて分派されていった。アメリカ合衆国は大陸全体を支配すべきと考える北部人もまだ居たが、大半はキューバの併合に反対し、特に奴隷州としての加入に反対した。ナルシソ・ロペスなど南部の後ろ盾をうけたフィリバスターは、キューバの独立に向けてキューバ国民の中にかなりの支持を得られたにも拘わらず、植民地政府を何度も倒そうとしては失敗していた。この島における一連の改革が、奴隷制度はいずれ廃止され、キューバは「アフリカ化」されると南部人に考えるようにさせた。アメリカ合衆国による奴隷制度擁護派の「侵略」の考え方は、新しく始められたカンザス・ネブラスカ法の議論の中で拒否されたので、国家の安全保障という名目での買収あるいは介入が、キューバ獲得のための最も受け容れられやすい方法と考えられた。
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