民主党全国大会
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民主党全国大会(みんしゅとうぜんこくたいかい、Democratic National Convention)は、4年に1度、アメリカ合衆国の民主党が正副大統領の指名候補を選出する時に開く大会のことである。略称はDNC。
概要
大会では、民主党全国委員会により招集された代議員たちによって党の基本方針である政策綱領と一連の選挙のルールを採択し、また、大統領選挙の指名候補者を選出する。
代議員には予備選挙・党員集会の結果に縛られる一般代議員(約3300票)と、予備選挙・党員集会の結果に縛られない特別代議員(約800票)がいる。特別代議員には、民主党全国委員会のメンバー、連邦議会上下両院議員、州知事、党の功労者(元大統領、元副大統領、元下院議長など)等がいる。
予備選挙を核とする現在の大統領候補指名制度が導入された1972年以降は、いずれも予備選挙の流れが固まった時点で指名候補が既に事実上決まっているが、一般代議員獲得数に差があまり無い場合、それ以前同様に特別代議員の大会における判断で指名候補が決まる可能性もある。
また、会場には民主党を支持する著名なスター(歌手や俳優)がゲストとして参加し、スピーチやパフォーマンスを披露することもある。
歴史
大会は民主党の定期大会でもあり、1832年に第1回大会が行われ、これまで数多くの歴史を残した。
- 1960年はカリフォルニア州ロサンゼルスのロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナで行われ、最終日にはジョン・F・ケネディの指名受諾演説が隣接するロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われた。
- 1968年の党大会では現職ジョンソン大統領の再選資格を残しての不出馬、有力候補ロバート・ケネディの暗殺という異例の状況下で副大統領のハンフリーが代議員の支持を得て大統領候補指名を獲得したが、この過程で反戦活動家らが異を唱え紛糾し本選挙は敗北。この事態を受けてジョージ・マクガヴァンによる代議員選出制度の改革が行われ、予備選・党員集会を中心とする代議員選出が制度化された。この制度による初の党大会(1972年)ではマクガヴァン自身が指名を獲得する。なお、1968年の民主党全国大会に合わせて暴動を扇動しようとしたとして起訴された7人は、大会の開催地名を取って「シカゴ・セブン」と呼ばれる。
- 2008年はコロラド州デンバーのペプシ・センターで行われ、最終日にはインベスコ・フィールド・アット・マイル・ハイで約8万人の観衆の下、バラク・オバマの指名受諾演説が行われた。
- 2012年はノースカロライナ州シャーロットのタイム・ワーナー・ケーブル・アリーナで開催された。当初最終日はバンク・オブ・アメリカ・スタジアムで開催予定だったが、雷雨が予想されていたため、急遽TWCアリーナに変更された。
- 2016年の全国大会は7月25日から28日までペンシルバニア州フィラデルフィアのウェルズ・ファーゴ・センターで開催され、ヒラリー・クリントンが指名受諾演説を行った。
- 2020年の全国大会は8月17日から20日までウィスコンシン州ミルウォーキーのファイサーブ・フォーラムで開催される予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響でオンライン開催に変更。ジョー・バイデンが指名受諾演説を行った。
- 2024年の全国大会は8月19日から22日までイリノイ州シカゴのユナイテッド・センターで開催され、カマラ・ハリスが主要政党では初の黒人女性ならびに初のアジア系アメリカ人の大統領候補として指名受諾演説を行った。
大会日程
大会は例年、夏に通常4日間にわたって開催されている。大体の流れは下記の通り。
- 全日程通じ:民主党関係者・著名人による演説
- 第1日:基調演説
- 第2日:政策綱領採択
- 第3日:大統領候補の指名
- 第4日:副大統領候補の指名、副大統領候補と大統領候補が指名受諾演説
党大会は、正、副大統領候補が指名受諾演説を行い、指名争いに敗れた候補者や党幹部達が壇上に上り、党の団結が重要であることをアピールして終了する。
関連項目
外部リンク
民主党全国大会
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「1960年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事における「民主党全国大会」の解説
1960年民主党全国大会は7月11日にロサンゼルスで開催された。大会が開かれる前の1週間、ケネディは、テキサス州出身の強力な上院院内総務リンドン・ジョンソンと、1952年と1956年の民主党候補だったアドレー・スティーブンソンが候補者となるべく宣言するという挑戦を受けた。しかし、ジョンソンもスティーブンソンもロバート・ケネディに率いられる有能で高度に効率的なケネディの選挙対策チームに対抗できなかった。ジョンソンはテキサス州とマサチューセッツ州の代議員による合同集会の場で、テレビ中継される討論でケネディに挑戦し、ケネディが応じた。視聴者の大半が討論はケネディの勝ちと感じ、ジョンソンは南部以外の代議員に支持を拡げることができなかった。 スティーブンソンは多くの左派代議員、特にカリフォルニア州で人気があったが、1952年と1956年の2回大敗しており、党指導者達は勝てるチャンスのある「新鮮な顔」を探すことになった。ケネディが最初の指名投票で指名を勝ち取った。続いて、多くの者を驚かせたことに、ジョンソンがケネディから副大統領候補として出馬を求められた。今日までジョンソン指名の詳細について多くの議論があり、なぜそれが提案されたか、またなぜジョンソンが受けたかである。歴史家の中には、実際にはケネディがその副大統領候補として他の候補者(例えばスチュアート・サイミントンあるいはヘンリー・M・ジャクソン)を望んだが、強力な上院院内総務に対する礼儀としてのみ先ずジョンソンの指名を提案したと推測する者がいる。この考え方に従えば、ケネディはジョンソンが民主党2番目の切符を手に入れることを受け入れたときに驚かされたことになる。もう一つの関連する逸話に拠れば、ジョンソンが提案を受け入れた後で、ロバート・ケネディがジョンソンが泊まるホテルのスイートルームを訪ね、ジョンソンが副大統領候補指名を受けないよう説得したということである。ジョンソンは「ケネディの弟分」が臆面もなく出馬しないように求めてきたことで気分を害した。 ロバート・ケネディとのぶっきらぼうな対面に対する反応として、ジョンソンはケネディに電話を掛けて、副大統領の指名候補は自分だと確認した。ケネディは明確にその副大統領候補としてジョンソンを望んでいると伝えた。ジョンソンとロバート・ケネディが激しい個人的また政治的確執を始めることになったこの経験で敵意を抱くようになり、1960年代の民主党には重い意味合いを持たせることになった。ジョンソンの指名についてロバート・ケネディが払った留保にも拘わらず、その指名は兄のケネディにとって大きな力になることが分かった。ジョンソンはケネディのために活発な選挙運動を行い、ケネディに対して懐疑的な南部州の幾つか、特にジョンソンの出身州であるテキサス州を民主党が制する主因になった。 また、ケネディの妹のパトリシアの夫で、ハリウッド俳優のピーター・ローフォードと、ローフォードの友人でマフィアとの関係も深いフランク・シナトラやサミー・デイヴィス・ジュニアなどが、カリフォルニア州やネバダ州、ハワイ州などで行われた選挙資金調達パーティーに出演するなど、ケネディの予備選勝利に向けて協力を行った。さらに1960年7月10日の民主党大会の初日前夜に、ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトン・ホテルで開かれた資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、デイヴィスのほかにも、ジュディ・ガーランドやトニー・カーチスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を斉唱したばかりか、会場をまわり代議員へのケネディへの支援への説得を行った。 7月13日、党の指名候補投票でジョン・F・ケネディは指名を獲得する。最終日である7月15日にはカリフォルニア州ロサンゼルスのロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで指名受諾演説を行い、この時にアメリカが抱える戦争、偏見、貧困といった諸問題に立ち向かう意味での「ニューフロンティア」を提示した。 大統領候補指名投票の結果(1960年民主党)ジョン・F・ケネディ806リンドン・ジョンソン409スチュアート・サイミントン86アドレー・スティーブンソン79.5ロバート・B・マイナー43ヒューバート・H・ハンフリー41ジョージ・A・スマザーズ30ロス・バーネット23ハーシェル・ラブレス2パット・ブラウン1オーバル・フォーバス1アルバート・ロゼリーニ1
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