人民戦線最後の攻勢と内戦の終結
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「スペイン内戦」の記事における「人民戦線最後の攻勢と内戦の終結」の解説
1938年7月25日、共和派は南北に分断された支配地域を回復しようと、エブロ川周辺で大攻勢に出る(エブロ川の戦い(英語版))。内戦の天王山となったこの戦いで共和国軍は約10万人を動員して総力を結集したことにより、緒戦は大きく前進したが、反乱軍が独伊の支援を含めた増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて共和国軍はずるずると後退、11月16日に壊走した。約3ヶ月続いた戦闘で最終的に両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国軍は反乱軍の約2倍の死者を出し、戦力を消耗し尽くしたことで組織的戦闘は実質的に終了、反乱軍の勝利が決定的となった。 1938年12月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌1939年1月末に州都バルセロナを陥落させた。人民戦線を支持する多くの市民が、冬のピレネー山脈を越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリスとフランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府はフランスに亡命した。 フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して共和派は徹底抗戦を目指す共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。3月28日にはマドリードが陥落、フランコ軍が市内に進駐。3月29日はフランコが「内戦は終結した」旨のラジオ放送を行う。この放送の直後にはカルタヘナもフランコ軍に占領された。3月31日にはスペイン全土が反乱軍に制圧され、4月1日にフランコによって内戦の終結と勝利が宣言された。
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