人民戦線と人民連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:57 UTC 版)
1938年の選挙によりアレサンドリは敗れ、人民戦線からペドロ・アギーレ・セルダ(英語版)が大統領に就任した。1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。第二次世界大戦では中立だったが、1945年4月11日、日本に宣戦布告した。1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下にソ連との断交が行われ、チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。 1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリ(英語版)が大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策をとり、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革もほとんど実効性のないものに止まった。 1964年、キリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが、人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは共産党などの賛同を得るため「穏健な銅山のチリ化」や、穏健な農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は時間を要するものであったが、任期中には間に合わなかった。政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。
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