人民戦線と宥和政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:29 UTC 版)
「フランス第三共和政」の記事における「人民戦線と宥和政策」の解説
仏ソ相互援助条約やヒトラー政権の樹立、右翼団体の動きなどに刺激された左派、スターリンから要請を受けた共産党とが反ファシズムを旗印に人民戦線が結成された。1936年5月3日に戦前最後の選挙(フランス語版、英語版)で人民戦線が圧勝し、6月4日に社会党のレオン・ブルムを首相とする第1次ブルム人民戦線内閣(共産党は閣外協力に留まる)が成立した。ブルムは通貨安競争対策としてアメリカやイギリスと三国通貨協定を結ぶ一方で金本位制を離脱し、フラン (通貨)を切り下げ、大規模な公共事業を行い、軍事産業にも多くの予算を投入して国防を充実させ不況からの脱出を図った。また、週40時間労働制、2週間の有給休暇制といった労働政策の充実を進めた。これらの政策は労働者側には支持されたが、多くの資本が外国に移ってしまい、ドイツとの再軍備競争に影響を与えた。加えて7月17日に勃発したスペイン内戦への対応をめぐり内部で対立が先鋭化した。イギリスの圧力と自国に内乱が波及するのを恐れた政府は8月に不干渉の方針を示すが、これに対して共産党は不満を強めた。1937年6月22日にブルムは退陣を余儀なくされた。次のカミーユ・ショータン首相の人民戦線内閣でも内部での対立が絶えなかった。1938年2月20日にイギリスのイーデン外相が、ネヴィル・チェンバレン首相の対ドイツ・イタリア宥和政策に反対して辞任、政変に揺れるフランスでもカミーユ・ショータンが辞任してレオン・ブルムが新首相に就任した3月13日に、外交的空白を突いてドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)が行なわれた。この後も人民戦線内部では対立が絶えず、4月10日にレオン・ブルムの第二次人民戦線内閣は崩壊した。
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