人民戦線から人民連合へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 18:06 UTC 版)
「チリ社会党」の記事における「人民戦線から人民連合へ」の解説
1938年、左翼諸政党を人民戦線に糾合し、急進党のルイス・アギーレ・セルダを大統領に当選させ、アジェンデが保健大臣として入閣した。しかし、1940年代後半に人民戦線は崩壊、以降、アジェンデは社会党・共産党・左翼小党派を糾合して人民行動戦線(FRAP)を組織して1958年・1964年の大統領選挙に立候補したが、キリスト教民主党を中心とする保守系候補に敗れた。 1970年の大統領選挙では、社会党とチリ共産党、左翼諸党派で構成された政党連合「人民連合」(UP)を組織して、議会での決選投票を経てついに当選する。しかし、人民連合内で、真のプロレタリア政権樹立には暴力革命も許される、と、書記長であったカルロス・アルタミラーノ・オレゴは強行姿勢を取った。それに反発する、キリスト教民主党と国民党連合の路線対立と、地主や資本家を及びJAP(物資配給委員会)対象外の中産階級を含む保守派の抵抗で、政局は混迷の度合いを深め、1973年9月7日事態打開のための海軍大将による国民投票要求を拒否。1973年9月11日、アウグスト・ピノチェトをリーダーとする軍部のクーデターで人民連合政権は崩壊した。クーデター直後、社会党は非合法化され激しい弾圧にさらされた。なお、最強派であったカルロスはブエノスアイレス、ハバナ経由で東ベルリンへ逃亡、弾圧とは無関係にあった。
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