1964年の大統領選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 23:16 UTC 版)
「バリー・ゴールドウォーター」の記事における「1964年の大統領選挙」の解説
ゴールドウォーターはネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事との熾烈な指名争いを勝ち抜き、1964年大統領選挙における共和党の大統領候補に指名された。ゴールドウォーターは、ロックフェラーに代表される共和党の主流派及び穏健派が、実際には民主党の政策と類似した、ニューディール路線を踏襲した政策を実行してきたに過ぎず、共和党の独自色を打ち出していないと批判した。そこで、彼は共和党の本来の主張、「小さな政府」、政府の市場経済への介入の限定、強硬な反共路線、反共主義に基づくNATO加盟国との協調、NATOの強化、ヴェトナムにおけるドラスティックな解決、を直截な言葉で訴え、国民の前に従来より明確な選択肢を提示した。こうした姿勢から、彼は現代アメリカにおける保守主義運動の先導者(コンサバティブのアイコン)とみなされることが多い。同時にアメリカ公民権法に反対し、同法に対する不満を抱く南部の白人層を取り込み、共和党の南部への進出を図った。実際彼は選挙戦で極右とのレッテルを貼られ、特に「ヴェトナムにおいて核兵器の使用もある」とした彼の発言は、彼が大統領に当選すれば核戦争が勃発するとのジョンソン陣営のネガティブ・キャンペーンに使用された。公民権法を巡る問題以外での彼とロックフェラーら共和党主流派との相違点は、当時言われたほど大きなものではなく、同じ原理原則に基づいていた。ゴールドウォーターがより急進的、ロックフェラーがより慎重かつ穏健というだけの話であった。1975年に蔣介石が死去した際、当時副大統領だったロックフェラーとゴールドウォーターは葬儀に向かうため同じ飛行機に乗り合わせた。その際ゴールドウォーターとロックフェラーは、実に多くの問題で両者の見解が一致することに気づいた。 しかし、彼が極右と看做され、良心的な有権者の離反を招いた最大の原因は、公民権法に対する彼の態度であった。彼は共和党員の大半が公民権法に賛成したにもかかわらず、同法に反対した。このことは彼が人種差別主義者であるというイメージを生み出し、ジョンソン政権はうまくこれを利用した。特に目立ったのは、KKKとゴールドウォーターを結びつけたキャンペーンである。KKKは共和党大会におしかけ「ゴールドウォーターを支持する」と叫んだ。ゴールドウォーターは、選挙対策として、KKKと自分とは関係がないということを強調した。かつて、元民主党の彼は、アリゾナ州におけるNAACP(全米黒人地位向上協会または全国有色人種向上協会)の設立者の一人であり、1950年代から60年代にかけては、上院で公民権問題に賛成の議員の一人とみなされていた。だが、ゴールドウォーターは、ジョンソン嫌悪と右派思想、南部戦略のため、同法に反対した。 大統領選挙において、ゴールドウォーターはジョンソン486、ゴールドウォーター52と歴史的大敗を喫した。得票率も38%台と低かった。彼はディープ・サウス5州とアリゾナで勝利し、同地域における共和党勢力の将来の拡張可能性を示した。
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