1960年代前半:ゴールドウォーターと共和党の保守化
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「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1960年代前半:ゴールドウォーターと共和党の保守化」の解説
ニクソンはアイゼンハワーの後を継いで1960年の大統領選挙に出馬したが、僅差で民主党のジョン・F・ケネディに敗れた。中道派で党内を上手くまとめてきたニクソンが力を失ったことで、穏健派(革新派)と保守派の党内対立が再び激化し、1964年の大統領候補指名選挙の場で正面から激突した。 1960年代以降、共和党穏健派を取りまとめていたのは、ニューヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーで、穏健派はメディアからしばしばロックフェラー・リパブリカンと呼ばれた。ロックフェラーは1959年から74年までニューヨーク州知事を勤め、多くの信奉者を集めていた。ロックフェラー・リパブリカンは、穏健または革新的な国内および社会政策を主張した。公民権運動を非常に強く支持し、規制や公的扶助制度を含めてニューディール政策を支持しつつも、自分たちのほうがより効率よく政策を実行できると主張した。ロックフェラーは働くことのできる生活保護受給者には、何でもよいから職に就くか職業訓練を受けることを要求した。一方、宗教や禁酒などの社会問題はもはや高い優先順位を持っていなかった。財政政策では予算の均衡(英語版)を主張し、その維持のために比較的高率の税制を支持した。減税ではなく、起業家精神(英語版)[要リンク修正]を通しての長期的な経済成長を模索していたのである。外交政策では国際主義であり、また反共主義だった。共産主義に対抗するための最善の方法は、対外援助を通じて経済成長を促し、強い軍事力を維持し、NATOとの緊密なつながりを維持することだと考えていた。州レベルの政策では、州立大学を強く支持し、低廉な授業料と潤沢な研究予算を主張した。高速道路網整備のようなインフラストラクチャー強化も支持した。地理的には、ペンシルベニア州からメイン州までの北東部を支持基盤としていた。大企業や銀行の支持を受け、特にウォール街(ニューヨーク市)の大企業から強い支援を受けていた。同時に労働組合とも良好な関係を築いていた。 対する保守派を率いたのは、アリゾナ州選出のバリー・ゴールドウォーター上院議員であった。共和党保守派はニューディール政策に強く反対し、減税や公的扶助制度の縮小等、小さな政府を主張した。外交政策では孤立主義や封じ込め政策は否定したが、国連に反対し、攻撃的な反共政策を提唱した。地理的には中西部から西部を支持基盤にしており、1950年代からは南部でも支持を伸ばした。そして、歴史的に党の主導権を握ってきた北東部の穏健派を「東部の体制側」と呼んで激しく攻撃した。 1964年の大統領選挙に向けて、ロックフェラーとゴールドウォーターは共に指名獲得を目指して立候補した。争いは激しかったが、最大の州カリフォルニアの予備選挙において、ロックフェラーの再婚を巡るスキャンダルの影響から、僅差でゴールドウォーターがロックフェラーに勝利し、ロックフェラーは予備選挙から撤退した。本選挙では民主党の現職大統領リンドン・ジョンソンに大敗し、議会選挙でも全国的に共和党の古参議員の多くが敗北した。しかし、長らく民主党の牙城であったディープサウス(保守的な南部)で民主党からの離反が進んだことから、南部ではゴールドウォーターが5つの州を獲得するという、共和党としては1872年以来最大の勝利を上げた。 選挙後も、民主党がリベラル色を強めていった影響もあり、共和党内では次第に保守派が台頭し、穏健派は弱体化していった。ロックフェラーは1968年にも大統領候補を目指したが、リチャード・ニクソンに敗れた。中道派のニクソン大統領は、穏健派の政策の多く、特に医療や社会福祉への支出、環境保護、芸術や人道支援などの政策を採用した。ロックフェラーはニクソン辞任後の74年から77年までジェラルド・フォード大統領の副大統領を務めたが、フォードの退任とともに政界を引退した。ロックフェラーの引退後、穏健派は「穏健派共和党員」と呼ばれることが多くなり、一方の保守派はロナルド・レーガンの元に集結していった。穏健派のうち、チャールズ・グッデル(英語版)上院議員やニューヨーク市のジョン・リンゼイ市長などは民主党に移籍し、その他の多くは次第に引退を余儀なくされた。1980年にイリノイ州のジョン・B・アンダーソン(英語版)下院議員が共和党を離党し、レーガンに対抗して無所属候補として大統領選挙に出馬したのを最後に、共和党内のリベラル派は消えていった。かつて彼らが支配した北東部は、今ではほとんど民主党の地盤となっている。 穏健派の衰退の一因として集団が頭でっかちなだったことを指摘する声もある。穏健派には、よく目立つ国政レヴェルの幹部の数に比べて、草の根で活動するメンバーが不足していた。何より、保守派のように大衆の熱狂的支持を集める力を欠いていた。穏健派にとって保守派がかきたてようとする熱狂は反アメリカ的に感じられた。ロックフェラーの上級補佐官であったダグ・ベイリー(英語版)は次のように回想している。「(ロックフェラーの)選挙スタッフ内には、『いいかい、我々はこんなに金を持っている。これを成し遂げるのに必要な人間は買えるはずなんだ。上から順番に買えばいい』というような意識があった。」ベイリーによれば、ロックフェラー陣営は、効果的な政治組織がトップダウン式ではなくボトムアップ式に力を獲得するものだということを、最後まで理解しなかった。
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