1960年代半ばから1995年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/07 05:29 UTC 版)
「下原スイカ」の記事における「1960年代半ばから1995年まで」の解説
諏訪市の市場に出荷するようになったのはこの時期である。各生産農家が運ぶのではなく、一括して引き受ける人がいた。中学生などが交代でトラックに同乗し、荷の積み降ろしを手伝うこともあった。 また、同じころから、接ぎ木の技術も導入された。ユウガオの台木にスイカを接ぐものであった(現在はトウガンを台木に使用)。それまでは連作障害が発生するため、「同じ畑では7年に1回しか作れない」と連作が限られており、耕作面積の一部にしかスイカを作付けできなかった。しかし、接ぎ木の導入で連作が可能になり、耕作面積が拡大するようになった。 接ぎ木導入と同じ時期に、苗を育てるための温床の構造も変化した。それまでビニールトンネルの中で苗を育てたのが、さらにそのビニールトンネル2列分を覆う大型のビニールハウスを作るようになった(ビニールハウスがないと、暖かい無風の場所で接ぎ木を行えない)。 スイカのつるが伸びていく地面に、雑草の繁茂防止と地温を高めるために、当初は稲藁や麦の茎を敷いていたのを、黒いビニールに代えるようになった。このビニールを敷くことを「マルチ」(マルチング)と呼ぶ。 1981年に、波田町農協は政府の補助金約3億円を受けて「スイカ共同選果所」を建設する。この時から、下原スイカのマークを農協組合員すべてが使用するようになった。新たに加えられた耕作地は、下原集落西側の水田転作地がほとんどであった。 生産農家の畑からトラックで直接スイカ共撰所に持ち込まれたスイカは、機械のベルトコンベヤーで運ばれ、簡単な清掃、重量の測定、重量ランクごとの仕分けを受けるようになった。作業は学生アルバイトを含む農協スタッフが行うので、農家は品質チェックに交代で関わるだけとなった。 出荷形態は、1960年代末ころのビニール袋入りを経て、スイカ共撰所が建設された時からは、段ボール箱に入れるようになった。段ボール箱入りが大型トラックによる輸送を可能にし、東京などの遠隔大消費地への出荷がより盛んになった。また、生産農家がみずから青果市場にスイカを運んでいたのが、農協による大量一括輸送に変わっていった。
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