1960年代後半 - 1990年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 04:51 UTC 版)
「リバーサイド教会」の記事における「1960年代後半 - 1990年代」の解説
1968年11月、マクラッケンの後継としてアーネスト・T・キャンベルが牧師となった。キャンベルが牧師となってから1年も経たないうちに公民権運動指導者のジェームズ・フォーマン(英語版)はリバーサイド教会での説教を中断し、黒人のアメリカ人が奴隷制度の賠償(英語版)を求めることができるいくつかの教会のうちの1つであるとした。これにより教会は1970年に初めてその財務数値を公表し、建物の資産価値は8,600万ドル、総寄付額は1,800万ドルと発表され、また今後3年間に渡る賠償金支払いのため45万ドルの基金が設立された。キャンベルの在任期間にはいくつかの論争のある説教が行われたほか、教会の理事会、評議会、および役員間での対立が増加していった。1976年6月、キャンベルは自身の方針ではこれらの状況を解決できないと判断し、突如牧師を辞任した。 1977年8月の投票により、ウィリアム・スローン・コフィン(英語版)が牧師に選出され、同年11月に牧師としての奉仕を開始した。ここまでの数年間教徒数は減少の一途を辿っていたがコフィンの牧師就任以降は増加に転じ、1979年末までに教徒数は2,627人に増え、朝の礼拝の年間総参加者数は1976年の49,902人から1978年には71,536人にまで増加した。コフィンの在任期間中はリベラル的な自由主義神学の説教が行われ物議を醸していたが、崇拝に関してはより保守的であった。1987年7月、コフィンは核兵器廃絶運動などを行っている平和組織SANE/FREEZE(英語版)の会長となるため牧師を辞任する意向を発表し、同年12月に最後の説教を行った。 リバーサイド教会は次の牧師を見つけるために委員会を組織し、牧師にふさわしい人物を全国的に調査した。1989年2月、委員会はユニオン神学校で教授として教鞭を執っていたジェームズ・A・フォーブス(英語版)を次期牧師に選出した。その後行われた教徒の投票により満場一致でフォーブスが牧師となり、リバーサイド教会初の黒人牧師となった。この当時、教徒の.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄4から1⁄3は黒人またはヒスパニックであった。しかし、就任後すぐにフォーブスの説教の長さから音楽の選択にまで及ぶ問題に関して、フォーブスとリバーサイド教会執行委員会のデイビッド・ダイソンの間で緊張が高まっていった。緊張の高まりはとどまる所を知らず、最終的には話し合いの際に両者の間にあっせん員を挟むまでに至った。この論争は結局解決できず、1992年10月にダイソンが辞任したことで幕を閉じた。 1996年、リバーサイド教会は現状の建物の使用状態とサービスに関する調査を開始し、10月にボディ・ローソン/ベン・ポール共同建築設計がリバーサイド教会マスタープランを発表した。この計画ではクレアモント・アベニュー入口の移転や前庭の舗装、回廊のロビーの再構築、体育館の上に7階建ての建物を建設することなどが含まれていた。この計画は多くの教徒より議論の余地ありとされ、ニューヨーク市歴史建造物保存委員会に対し教会を歴史建造物へ登録し外観を変更できないように求める請願も行われた。1998年12月、教徒は教会の歴史建造物への登録の可否を問う投票を行った。この際教徒は教会全体を登録すべきであるという保護主義者の要請に従わず、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアウィングを除く竣工当時の教会堂のみを推薦した。2000年5月16日、歴史建造物保存委員会はリバーサイド教会を歴史建造物に登録した。
※この「1960年代後半 - 1990年代」の解説は、「リバーサイド教会」の解説の一部です。
「1960年代後半 - 1990年代」を含む「リバーサイド教会」の記事については、「リバーサイド教会」の概要を参照ください。
- 1960年代後半 - 1990年代のページへのリンク