1960年代初めまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/07 05:29 UTC 版)
1935年ころ、下原でスイカが作られ始めた。 1950年代後半、下原スイカはすでに松本の青果業者には有名であった。スイカと並行してトマト栽培も盛んであり、1960年ころにはスイカとトマトが集落農家の基幹作物であった。トマトは生食用と加工用の2種類が作られており、生食用は東京市場にも出荷していた。 下原集落は、1957年から1960年当時は戸数が32軒ほどと、波田町(当時は村)の中でも小さな集落だった。しかも、南北670メートル、東西670メートルほどの広さに農家が分散していた。1957年当時、この集落で販売用のスイカを作っていない家は、非農家だった家、水田栽培だけだった農家、村内の別集落から移転したばかりでスイカ・トマト栽培のノウハウがなく水田と養蚕中心だった農家などだけで、わずかだった。 1960年ころのスイカの品種は「旭都」で、農協は種や生産資材の斡旋はしていたが、出荷までには関わっていなかった(松本市に2つあった青果市場「丸果」「丸松」(ともに略称)から集荷に来ていた)。1960年代半ばにトラックの普及が進み、生産農家がみずから青果市場に持ち込むようになる。 当時の出荷方法は、各農家が畑からリヤカーで自宅に運び、庭で果実の汚れを落とし、「旭都」および「下原」のラベル2枚を貼り、重量を測るなどの作業をし、10個を1口としてトラックにバラ積みで送り出していた。 その他、松本市の先進的なスイカ栽培地であった並柳地区や千葉県の栽培地に団体で研修に行くなど栽培技術の向上に努め、東京の市場を見学して需要動向を研究していた。
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