初期のカナダ演劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 03:02 UTC 版)
ノヴァスコシアのアナポリス湾はカナダにおけるフランス語及び英語両方の演劇を生み育てた場所である。テアトル・ド・ネプチューヌは北アメリカではじめてのヨーロッパ系演劇プロダクションであった。カナダにおける英語の演劇もアナポリスロイヤルではじまった。ノヴァスコシアのフォート・アンではプリンス・オブ・ウェールズの誕生日に芝居が上演されていた。1733年1月20日土曜日にウェールズ公フレデリック・ルイスの誕生日を祝うため、駐屯していた軍人たちがジョージ・ファーカーの『募兵将校』を上演したという。ポール・マスカレンはノヴァスコシア総督だった時期にモリエールの芝居『人間嫌い』をフランス語から英語に翻訳し、1743年から1744にかけて複数の上演を行った。タイトル不明の芝居が1748年1月20日にやはりプリンス・オブ・ウェールズの誕生日祝いとして上演されており、これは同年2月2日に再演されている。 テルボンヌのアントワン・フーシェ(1717-1801、ルイ=シャルル・フーシェの父)はカナダ発のフランス語劇場のオーナーとなった。1774年にさまざまなイギリスの様々な軍人たちとともにフーシェははじめてモントリオールの自宅でモリエールの戯曲を上演した。他にも軍隊のために軍人が演じるショーが行われており、このため初期段階で舞台芸術と戦争が結びついていた。一般人にはこれを歓迎し、軍人にとっても戦争や日頃の軍事儀礼からの気晴らしとなった。 1825年以前にはモントリオールのダルハウジー・スクエアにあるヘイズ・ハウス・ホテルが劇場を持っており、ドイツのオーケストラやウィーンのダンスを舞台にかけていた。 ここが火事で燃えた後、ジョン・モルソンが1825年にシアター・ロイヤルを建て、シェイクスピアや王政復古の劇作家の作品をかけた。1000人ほどの観客を収容でき、サーカスやコンサートにも使われた。1844年に取り壊されてかわりにボンスクール・マーケットができるまでに、エドマンド・キーンやチャールズ・ディケンズがここでパフォーマンスを行った。 西部ではサー・ジェームズ・アレクサンダー・ローヒードにより、グランド・シアターが1912年にカルガリーに建てられた。グランドはカルガリーにおける多くの芸術組織にとって最初の基地となり、演劇、オペラ、バレエ、薨去曲のコンサート、映画などがカルガリーではじめてここで公演された。1960年代初めまで、この劇場はカルガリーにおける社会的、文化的、政治的な生活の中心地とみなされていた。グランド・シアターは2004年に取り壊されそうになったが、シアター・ジャンクションと劇団ディレクターのマーク・ロウズの助けにより保存されることになった。 1929年からマーサ・アランがモントリオール・レパートリー・シアターを始め、のち共同でドミニオン・ドラマ・フェスティバルも設立した。アランはアマチュア演劇が大嫌いであったが、アメリカの影響を受けた映画館の迅速な拡大によりモントリオール及びカナダ全体のライブ演劇が脅かされていた時、アランの活力はカナダのリトル・シアター運動の先駆けとなった。アランはほとんどひとりで現代カナダのプロフェッショナルな演劇の基盤を築いた。 ケベックでは17世紀の末頃からカトリック教会による検閲が習慣的に行われており、宗教や歴史を題材としたものばかりが上演されていた。1930年代末にグラシアン・ジェリナがケベックのおどけ者の少年を主人公とした戯曲『フリドラン』をラジオと舞台の両方で発表し、これは地域の身近なものごとを題材とする現代的な作品であった。この作品は大ヒットし、ケベック演劇の本格的な始まりとなったと言われている。
※この「初期のカナダ演劇」の解説は、「カナダの演劇」の解説の一部です。
「初期のカナダ演劇」を含む「カナダの演劇」の記事については、「カナダの演劇」の概要を参照ください。
- 初期のカナダ演劇のページへのリンク