初期のキャリアから最初の引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 14:55 UTC 版)
「イザベル・ゲラン」の記事における「初期のキャリアから最初の引退まで」の解説
セーヌ=サン=ドニ県ロニー=スー=ボワで生まれ、イヴリーヌ県ランブイエで育つ。父は婦人服ブランドで働いていて母は主婦、兄と姉が1人ずついた。ゲラン自身によれば、家族の中には芸術にかかわりのある者は1人もいなかった。 バレエを始めたのは、6歳頃のことだった。近くにあったバレエ教室に姉が通っていたので、「子供の趣味」くらいの軽い気持ちで始めたという。舞台に立つことが好きで、特に「何かを演じる」ということを好んでいたため、バレエの世界には踊りと演技の双方があると感じていた。その頃にバレエコンクールで入賞した経験が、ゲランをバレエダンサーへの道に進ませる契機となった。 バレエに本格的に取り組もうと決意したのは、14歳のときであった。ゲランの決意を両親も尊重し、応援してくれた。ただし、当時のゲランの年齢ではパリ・オペラ座バレエ学校に入学するには遅すぎた。そこでパリのコンセルヴァトワールに入学して、クリスティアーヌ・ヴォサールの指導を受けた。コンセルヴァトワールには2年間通い、最優秀の成績で卒業した。コンセルヴァトワールを最優秀で卒業すると、パリ・オペラ座バレエ学校最終学年への編入試験を受けることが可能だった。ゲランは編入試験に合格して、パリ・オペラ座バレエ学校で1年間学んだ。 卒業後にパリ・オペラ座バレエ団の入団試験を受けて、1978年に17歳でコール・ド・バレエの一員としてバレエ団に入団した。初めてソリストの役を割り当てられたのは、1982年に上演された『眠れる森の美女』(ロゼラ・ハイタワー演出)でカラボス役を踊ったときであった。ハイタワーは当時のパリ・オペラ座バレエ団芸術監督でもあり、ゲランをいくつかの作品でキャストに起用したが、それは特別なこととは感じなかったという。 ゲランにとっての大きな転機は、1983年にルドルフ・ヌレエフがパリ・オペラ座バレエ団芸術監督に就任したことであった。ヌレエフは就任後、ゲランを始めとする若手ダンサーたちを積極的に登用し、舞台で踊る機会を与えた。ヌレエフはスタジオで直接ゲランを指導し、『ドン・キホーテ』、『白鳥の湖』(いずれもヌレエフ振付)で主役に起用した。ヌレエフはさらに彼自身が座長を務める「ヌレエフ&フレンズ」のようなグループ公演への参加を勧め、ゲランに世界各地で踊る機会も与えた。 ヌレエフの就任とその後の活動はパリ・オペラ座の旧来の方針を覆すものであったため、パリ・オペラ座バレエ団の内部はゲランなどのようにそのやり方を受け入れる若い世代と以前からの方針を引き継ごうとする年長者の世代とに二分された。後にゲランは当時を回顧して「私たち若い世代にとってヌレエフは素晴らしい存在でした。(中略)彼は私たちに厳しかったし、言い争ったこともあります。でも私たちがいまも生き続けているのは彼のおかげです。人々が私たちのことを忘れないのは、彼によって育てられたとても力強い世代だからです」と感謝の念を述べていた。 1984年にプルミエール・ダンスーズに昇進し、同年の第1回パリ国際舞踊コンクールでローラン・イレールと組んでともに銀メダルを受賞した。1985年11月2日、『白鳥の湖』(ヴラジーミル・ブルメイステル版)のオデット=オディールを踊り、終演後にヌレエフからイレールと同時にエトワールに任命された。イレールは同じくヌレエフ世代であり、2人のパートナーシップは評価が高かった。 ヌレエフはゲランとイレールを重用し、重要な役を与えた。ヌレエフの念願は『ラ・バヤデール』をパリ・オペラ座バレエ団で上演することであったが、財政と組織上の理由から公演の実現は1年先延ばしになっていた。ヌレエフの病状は悪化の一途をたどり、結局1992年の『ラ・バヤデール』が遺作となった。この作品で、ゲランはヒロインのニキヤ(神殿の舞姫=バヤデール)の初演者となった。相手役のソロル(領主に仕える戦士)はイレール、ガムザッティ(ニキヤの恋敵で領主の姫)はエリザベット・プラテルが踊り、これはヌレエフが最も望んでいたキャストであった。ゲランは『ラ・バヤデール』について「私にとってとても大切なバレエです」と述懐し、ヌレエフ自身がパリ・オペラ座で『ラ・バヤデール』を上演するという夢をかなえることができたことを感謝していた。『ラ・バヤデール』は好評を持って迎えられ、DVDでもゲランとイレールが踊る映像が収録された。 パリ・オペラ座には2001年まで在籍し、最後の舞台は『マノン』(ケネス・マクミラン振付)だった。当時40歳のゲランはその後2年間パリに滞在し、パリ・オペラ座やいくつかのガラ公演にゲストとして舞台に立つこともあった。2004年にニューヨークに移住し、この時に舞台人としてのキャリアを1度終えた。
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