人民寺院調査と暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:26 UTC 版)
「レオ・ライアン」の記事における「人民寺院調査と暗殺」の解説
詳細は「人民寺院」、「ティモシー・ストウン(英語版)」、および「サンフランシスコにおける人民寺院」を参照 1955年にジム・ジョーンズによって設立され、70年代にサンフランシスコに本部を置いて活動していた社会主義キリスト教系の新興宗教団体・人民寺院(Peoples Temple)は、1977年頃から南アメリカのガイアナ共和国に広大な土地を借りて開拓団を送り、通称「ジョーンズタウン」と呼ばれる集落(コミューン)に入植を始めていた。しかし1978年にはジョーンズタウンで信者たちに対する教団の広範な虐待と人権侵害に関する事例が現地から漏れ始めた。 これに先立つ1976年10月5日、教団の信者であったボブ・ヒューストンが線路脇で切断された遺体として発見された。これは彼が教団を去ることを元妻と電話で話しあってから3日後のことであった。ヒューストンの父親と友人関係にあったライアンは人民寺院の問題に興味を持ち、さらに教団と敵対する「憂慮する親族(Concerned Relatives)」のリーダーであったティモシー・ストウンとジョーンズとの間の親権争いを知って関心は高まり、ストウンによる事件の詳細を記した議会議事録を入手するに至った。ライアンは、ストウンの件に関して、ガイアナのフォーブス・バーナム首相に書簡を送った91人からなる下院議員団の一人であった。 サンフランシスコ・エグザミナー紙の記事を読んだ後、ライアンは、ジョーンズと約1,000人の信者たちが入植したジョーンズタウンに行く意志を表明した。この決意は、カリフォルニア人を中心とした憂慮する親族会と、社会的不公正に対する彼自身の嫌悪感の両方によって後押しされた。サンフランシスコ・クロニクル紙によれば、ライアンの調査中に、米国国務省は「ジョーンズタウンで何が起きているかを知ろうとするライアンの調査を何度も妨害し」、「何もかも上手くいっている」と彼に報告していたという。 国務省は、ジョーンズタウンに対するアメリカ政府の行動が、ガイアナとの潜在的な「法的論争」に繋がると危惧したが、ライアンは少なくともこの見解の一部には否定を示した。後にクロニクル紙に掲載された記事では、ライアンは「地元の民主党組織とジミー・カーター政権下の国務省に逆らい」、独自に調査の準備を進めたと書かれている。
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