人民委員会会議
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ドイツの歴史 東フランク王国 神聖ローマ帝国 プロイセン王国 ライン同盟諸国 ドイツ連邦 北ドイツ連邦 南部諸国 ドイツ国(帝政) ドイツ国(ヴァイマル共和政) ドイツ国(ナチス・ドイツ) 連合軍軍政期 ドイツ民主共和国(東ドイツ) ドイツ連邦共和国(西ドイツ) ドイツ連邦共和国 共和政宣言後、社会民主党は独立社会民主党に対して政府構築への協力を求めた。独立社会民主党の主導権を握ったリープクネヒトは社会主義共和国の成立とレーテによる三権掌握、ブルジョア分子の政府内からの排除などの6ケ条を主張したが、社会民主党は、国民議会による選挙が必要であること、レーテの全権掌握は独裁を意味し民主主義に反すること、緊急事態にある現在政府内からブルジョア分子をすべて排除することには反対であると回答した。11月10日、独立民主党の穏健派は強硬派を除外した会議を開き、条件を撤回して政府参加を決めた。この政府は人民委員会会議(ドイツ語版)という名称がつけられ、議長は常にエーベルトが就任するなど社会民主党主導の政府となった。一方でスパルタクス団とオプロイテは革命政権の樹立を目指し、活発に活動した。 この10日の深夜から、参謀次長ヴィルヘルム・グレーナーとエーベルトの間で頻繁に連絡が行われ始めた。エーベルトは革命派を抑え、ドイツを安定化させるためには軍が必要であると考えており、グレーナーもまた新政府の安定化を望んでいた。二人の間には密約(ドイツ語版)が結ばれ、軍は新政府に協力することになった。 11月11日、コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印された。社会民主党は国民議会の選挙を求めたが、レーテ独裁による社会主義政権を狙うスパルタクス団とオプロイテはこれに反対した。急進二派はベルリンのレーテを掌握し、さらに全国のレーテに呼びかけて革命をもくろんだが、各地のレーテは反政府的な意図で蜂起したのではなく、厭戦感情に基づくものであった。このため、12月16日から21日に開かれたレーテの全国大会が開かれたが、急進派はボイコット、レーテの主導権は社会民主党によって握られる事になった。この大会で国民議会の選挙を1919年1月19日に開催する事が決まり、急進派の路線は敗北した。しかしこの全国大会では軍階級の解消と、兵士による将校選挙が決議され、軍はこれに反発した。この決議はグレーナーとレーテ中央委員会の協議によって先送りされる事になったが、独立社会民主党は不満を持ち、政府の結束は乱れ始めた。 この頃ベルリンには社会民主党のオットー・ヴェルスベルリン軍司令官の指揮下にある「共和国防衛隊」という軍事組織があったが弱体であり、ベルリン警視総監に就任した独立社会民主党のエミール・アイヒホルン(ドイツ語版)が組織した「保安隊」、王宮を占拠していた「人民海兵団(ドイツ語版)」といった二つの組織の存在が政権の不安定要因となった。12月23日、王宮で略奪を行った人民海兵団をポツダムから呼び寄せた軍に命じて攻撃させた(人民海兵団事件)。この事件に反発して独立社会民主党(ハーゼ、ディットマン、バルトの3人)は政府から離脱した。しかしこの鎮圧の最中、軍が群集によって武装解除される事件が起こり、軍が無力化したという印象を人々に与える事になった。
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