全権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/13 19:49 UTC 版)
「バーラージー・バージー・ラーオ」の記事における「全権掌握」の解説
また、1749年12月15日、マラーター王シャーフーが死亡した。彼は死に際して、宰相に全権を委ねる遺言を残しており、この時点でバーラージー・バージー・ラーオは王国の全権を掌握した。 シャーフーは死に際して男子がおらず、マラーター王国ではシヴァージー2世の息子ラージャーラーム2世が即位した。だが、ラージャーラーム2世と対立したターラー・バーイーがラージャーラーム2世は自身の孫ではないと言い出したため、マラーター王国では混乱が起きた。 そのため、バーラージー・バージー・ラーオはこの混乱を避けるため、1750年に王国の行政府をサーターラーからプネーに移し、王国の実権をも掌握した。 かくして、バーラージー・バージー・ラーオはすべての権限を握り、統治機構の公式の長として君臨し、事実上の国家元首となった。
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全権掌握
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「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事における「全権掌握」の解説
とはいえ、同年4月6日にヤシュワント・ラーオは再び脱獄することに成功し、ナーグプルから逃れた。 これらの事件ののち、ヤシュワント・ラーオはだれも信用しなくなった。その一方、彼はヴィトージー・ラーオやアミール・ハーンなど多数の支持者を得た。 同年12月にヤシュワント・ラーオはマヘーシュワルに入城し、1799年1月にはカーシー・ラーオを廃すると宣した。そして、プネーにとらわれているマルハール・ラーオの息子カンデー・ラーオ・ホールカルの当主位を宣し、自身も共同統治者となった。ただし、彼をカンデー・ラーオの摂政とする場合もある。
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