宰相による全権掌握と最大領土
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「マラーター王国」の記事における「宰相による全権掌握と最大領土」の解説
1740年4月、バージー・ラーオが死亡し、その息子バーラージー・バージー・ラーオが宰相位を継承した。この世襲もまたシャーフーに認められたものであった。 同年12月からバーラージー・バージー・ラーオはプネーを去り、デリーに向けて遠征し、帝国の首都デリー近くのアーグラ周辺に陣を張り、1741年7月14日に皇帝ムハンマド・シャーにこの領有を認めさせた。 1749年12月15日、マラーター王シャーフーが死亡した。彼は死に際して、宰相に全権を委ねる遺言を残しており、この時点でバーラージーは王国の全権を掌握した。シャーフーは死に際して男子がおらず、マラーター王国ではシヴァージー2世の息子ラージャーラーム2世が即位した。だが、ラージャーラーム2世と対立したターラー・バーイーがラージャーラーム2世は自身の孫ではないと言い出したため、マラーター王国では混乱が起きた。 そのため、バーラージーはこの混乱を避けるため、1750年に王国の行政府をサーターラーからプネーに移し、王国の実権をも掌握した。かくして、バーラージーはすべての権限を握り、統治機構の公式の長として君臨し、事実上の国家元首となった。 また、バーラージーの宰相在任期間、マラーターの軍勢は北はラージャスターン地方、南はカルナータカ地方、東はベンガル地方にまで進撃し、その領土は四方に広がって最大となり、北はデリーから南はトゥンガバドラー川までの広大な版図を有していた。彼は父親のように征服事業を押し進め、マラーターの権力をインドにおいて頂点に押し上げ、全土を席巻してその支配を確固たるものにした。
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