宰相となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:03 UTC 版)
天宝10載(751年)、彼が推薦し、剣南節度使となっていた鮮于仲通が南詔に大敗し、8万のうち6万の兵を失った。楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を起こした。鮮于仲通に上奏させ、楊国忠自身で剣南節度使を兼ねた。南詔も吐蕃に臣従し対抗した。天宝11載(752年)、政敵となった王鉷を陳希烈とともに謀反の罪で自殺に追い込む。御史大夫に昇進し、陳希烈・哥舒翰とともに、李林甫に対する弾劾を始める。李林甫は、楊国忠を南詔討伐のために赴かせようとしたが、病死し、楊国忠は中書令・文部尚書となった。 唐の政権を握り、四十を超える使職を兼ね、自分につかない官僚は地方に出し、年功序列で出世させることで衆望を得て、人事を全て自分で決めた。天宝12載(753年)には、死去した李林甫を謀反の罪で誣告し、李林甫の親類や党を組んだものは流罪となった。その後、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。
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