宰相への道とは? わかりやすく解説

宰相への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 07:20 UTC 版)

李林甫」の記事における「宰相への道」の解説

隴西郡出身小字は哥奴。 音律絵画通じ、母の兄弟の姜皎に深く愛されたと伝えられる。『李林甫外伝』によると、20歳まで書を読まず狩猟蹴鞠好み洛陽で休むことなく遊んでいた。しかし、ある日庫部郎中であった従叔父(父の従弟)のところに赴いて才能認められ官職についた伝えられる開元14年726年)、御史中丞として、御史大夫の崔隠甫・同僚宇文とともに科挙派の首領張説弾劾加わっている。その後刑部侍郎吏部侍郎歴任する李林甫表面柔和であるが、ずるがしこく計算高く宦官后妃の家と結んで玄宗の意を探ったために、奏上することが全て旨にかなったという。そのため玄宗から信頼されたと伝わる。 さらに、玄宗寵愛受けていた武恵妃組みその子李瑁後ろ盾になることを誓ったため、黄門侍郎抜擢されと言われる開元22年734年)には、礼部尚書昇進し宰相となる。この時、張説から科挙派の首領継いでいた張九齢から反対があったため、張九齢敵対することになった。しかし、李林甫張九齢偽ってへりくだったと伝わる。

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宰相への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 08:10 UTC 版)

ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の記事における「宰相への道」の解説

セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロはリスボンの小貴族マヌエル・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデの息子として生まれたコインブラ大学学び、しばらく軍に勤務した後にリスボン戻り、アルコス・セバスティアン伯爵の姪であるテレサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダと結婚した。しかし、妻の実家身分違いだと反対しており、何かと差し障り多かったので、ポンバル近く領地に引きこもった1738年ロンドン駐在ポルトガル大使任命され1745年からはウィーン駐在ポルトガル大使移ったポルトガル王妃マリア・アナオーストリア・ハプスブルク家出身で、カルバーリョ何かと目をかけ、彼の最初の妻亡くなると、レオノール・エルネスタ・デ・ダウンと結婚させた。しかし、国王ジョアン5世は彼を嫌い、1749年ウィーンから召喚した。翌1750年ジョアン5世死去すると、新王ジョゼ1世カルヴァーリョ好み王太后了解得て外務大臣任命した。やがて王はカルヴァーリョ全面的に信頼するようになり、国政委ねていった。

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