宰相ビューロー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)
「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「宰相ビューロー時代」の解説
1900年10月17日、外相ビューロー侯爵が後任のドイツ・プロイセン宰相に就任した。ビューローとオイレンブルクは同性愛関係さえ疑われそうな手紙をやり取りするほど親しい関係にあった。ビューローはオイレンブルクに「ビスマルクは権力そのもの、カプリヴィとホーエンローエは閣下の前ではある程度議会や政府の代表者であると自認していました。私は自分を閣下の手足であると思っています。私の代からいい意味において陛下の私的関係による公支配が始まったのではないでしょうか」などと述べている。ヴィルヘルム2世もビューローに大いに期待し、ビューローを「私自身のビスマルク」と呼んだという。ビューローの栄進の一方、オイレンブルクは次第に政治から遠ざかるようになっていった。1902年にはオーストリア大使の職も辞した。その後は1907年の失脚まで政治にかかわる事はほとんどなくなった。 ビューローははじめ帝国議会第一党である中央党に依存することで帝国議会を安定的に運営していたが、ヴィルヘルム2世は政府が中央党に支配されるのを好んでおらず、また中央党内でもマティアス・エルツベルガーら左派政治家が政府に追従しすぎだとして党執行部への批判を強めていた。 政府と中央党の関係が悪化していく中、1904年にドイツ帝国植民地であるドイツ領南西アフリカでホッテントット族やヘレロ族が反乱を起こした。ヴィルヘルム2世とビューローはただちに援軍を派遣して反乱を鎮圧させたが(ヘレロ・ナマクア虐殺)、1906年秋にその軍の駐留費として帝国議会に提出された追加予算案は社民党と中央党によって否決されたため、政府は12月13日に議会を解散して総選挙に打って出た(「ホッテントット選挙」と呼ばれた)。ビスマルク時代からの与党連合である「カルテル」3党に加えて、左派自由主義3党(自由思想家連合、自由思想家人民党、ドイツ人民党)も対外的問題や植民地政策については政府の方針を支持することを表明した。1907年1月に行われた選挙の結果、この6党は議会の過半数を獲得した。選挙後に6党は連立するようになり議会内に「ビューロー=ブロック」と称された一応安定した与党連合が形成されるようになった。とはいえ左派自由主義勢力は対外問題や植民地問題で政府を支持しただけであり、内政問題では政府とは依然大きな隔たりがあった。 1906年4月28日にマクシミリアン・ハルデン(ドイツ語版)というユダヤ人ジャーナリストが「皇帝の側近に同性愛者がいる」という記事を発表した。続く一連の裁判の中でハルデンは「反ユダヤ主義的な国粋主義の同性愛者の一味が皇帝を操っており、強大な大国としての政治を不可能にしている」と主張した。ハルデンはビスマルクやホルシュタインの証言をもとにオイレンブルクを男色家として糾弾し、1908年5月8日にオイレンブルクが同性愛の容疑で逮捕されるに至った(ハルデン=オイレンブルク事件)。その後オイレンブルクは病気療養を理由に釈放されたが、この事件により完全に失脚した。ビューローはじめこれまでオイレンブルクの恩恵に浴していた者たちも一斉にオイレンブルクと距離を取るようになった。この一件はヴィルヘルム2世をかなり不安にさせたらしい。ヴィルヘルム2世はビューローに不信感を持つようになり、また皇帝権威を大きく失墜させる事件を起こしてしまう。 1908年10月28日にイギリス陸軍大佐エドワード・ジェームズ・モンタギュー=スチュアート=ワートリー(英語版)とヴィルヘルム2世のドイツの内政と外交について語った対談がイギリスの新聞『デイリー・テレグラフ』に掲載された。この対談でのヴィルヘルム2世の「軽口」が国内外で問題視された(デイリー・テレグラフ事件)。帝国議会から皇帝の権力を憲法で制限すべきだという論議が盛んになり、宰相ビューローからも擁護してもらえず、窮地に陥ったヴィルヘルム2世はこれを静めるためビューローに対して「今後は憲法にのっとって政治を行う」と約束する羽目となり、帝国議会の威信が強まった。以降ヴィルヘルム2世の権力は事実上軍事に限定され、宰相の権力基盤は皇帝から帝国議会多数派に移行していった(とはいってもなおも皇帝は最高権威で在り続け、政府高官にとってヴィルヘルム2世から支持を得ることは自らの立場を強化するのに重要なことであったが)。この件でヴィルヘルム2世はビューローを完全に「裏切り者」と看做すようになった。ヴィルヘルム2世はビューローを公然と「腐れ肉」などと呼ぶようになった。しかしヴィルヘルム2世の「個人的統治」の終焉はドイツ帝国に深刻な「指導者不在」の状態を招くこととなる。 イギリスとの建艦競争によって巨額になりはじめた財政赤字が深刻化するとビューローは相続税の対象拡大、消費税の値上げ、新聞広告税の導入などによって賄おうとしたが、議会のあらゆる勢力から批判され、「ビューロー=ブロック」は崩壊した。窮地に陥ったビューローだが、ビューローに反感を持っていたヴィルヘルム2世は彼を救おうとはしなかった。ヴィルヘルム2世は1909年7月14日にビューローの辞表を受理した。後任のドイツ帝国・プロイセン王国宰相にはテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが任じられた。 1908年11月、宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵 1908年、キール港に停泊するドイツ皇室御用船「ホーエンツォレルン(de)」の甲板上のビューローとヴィルヘルム2世とルドルフ・フォン・ヴァレンティニィ(de)。
※この「宰相ビューロー時代」の解説は、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
「宰相ビューロー時代」を含む「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事については、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の概要を参照ください。
- 宰相ビューロー時代のページへのリンク