イタリア・ユーゴ間の対立と自由都市フィウメ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 05:15 UTC 版)
「リエカ」の記事における「イタリア・ユーゴ間の対立と自由都市フィウメ」の解説
第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の終焉は、クロアチア人上流階級と、フィウメの行政を握るイタリア人との対立を招いた。イタリア、そしてセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちのユーゴスラビア王国)の建国者はどちらも、住民の民族構成に基づく民族統一主義を主張し、宗主権を要求した。 短期間のセルビア軍による占領後、イタリア、フランス、イギリス、アメリカ合衆国の連合軍が1918年11月にフィウメを占領した。一方で1919年、パリ講和会議の場でフィウメの将来が議論されていた。 イタリアは、市全体の人口の88%をイタリア人が占めているという事実を根拠に領有を主張した。クロアチア人はフィウメ人口の残りを占め、近隣の町スシャクを含む郊外で人口が優勢であった。1919年9月10日、サン=ジェルマン条約でオーストリア=ハンガリー帝国の解体が宣言された。フィウメの帰属についての交渉は、イタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ率いるイタリアの国粋主義民族統一軍勢力が、武力でフィウメを管理下に置いた2日後に中断された。ダンヌンツィオはすぐ、フィウメにカルナーロ=イタリア執政府を樹立させた。1920年6月の、イタリア本国でリベラルのジョヴァンニ・ジョリッティが首相に再任されると、ダンヌンツィオのクーデターに対する公式姿勢を強める意志を表していた。 11月12日、イタリアとユーゴスラビアはラパッロ条約を締結し、双方とも受理可能な政権のもとでフィウメは独立したフィウメ自由市であるとした。ダンヌンツィオの反応は派手で、異常な判断によるものであった。ダンヌンツィオはイタリアに対し宣戦布告し、イタリア王国空軍による空爆を招いた。その年の終わりに彼は降伏し、5日間の抵抗戦の後、イタリア軍が1921年1月にリエカを占領した。自治論者の率いる憲法制定議会選挙は、領土を巡る争いに終止符を打てなかった。短期間のイタリア愛国主義者による全権掌握は、イタリア王全権大使の介入で終わった。そして1922年3月の、地元ファシストの政権乗っ取りは短期間に終わり、3度目のイタリアの軍事侵攻を招いた。それから7ヶ月後、イタリア本土がファシスト政権下に入った。 辛辣な外交の時代は、1924年1月27日のローマ条約で、フィウメがイタリアへ返還され、スシャクがユーゴスラビアへ返還され、フィウメ港の共同管理を行うことで決着した。3月16日、公式にイタリアはフィウメを併合し、その後20年に及ぶイタリア人支配を続け、第二次世界大戦中のイタリア降伏後は20ヶ月間ドイツの軍事占領を受けた。大戦中には連合国側からの空襲でフィウメは被害を受けた。港湾地区は、退却するドイツ軍によって破壊された。ユーゴスラビア軍がフィウメに入ったのは、1945年5月3日であった。
※この「イタリア・ユーゴ間の対立と自由都市フィウメ」の解説は、「リエカ」の解説の一部です。
「イタリア・ユーゴ間の対立と自由都市フィウメ」を含む「リエカ」の記事については、「リエカ」の概要を参照ください。
- イタリア・ユーゴ間の対立と自由都市フィウメのページへのリンク