金本位制
金本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 07:53 UTC 版)
金本位制(きんほんいせい、英: gold standard)とは、狭義には、一定量の金を標準的な経済単位とする通貨制度であり、広義には、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた形で金額を表すものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。この場合、その国の通貨は一定量の金の重さで表すことができ、これを法定金平価という[注釈 1] 。
注釈
- ^ 日本では1871年、新貨条例が定められ、この時金平価は1円=純金1.5グラムとされたが、その後1897年の貨幣法施行で金平価は半減され、1円=純金750ミリグラムとなった。
- ^ 個人あるいは政府が造幣局に金地金を納入し、その量に応じて金貨の交付を受ける制度。すなわち手持ちの地金を本位貨幣に鋳造することを政府に請求できる制度。
- ^ 下関条約で合意した賠償金は銀2億テールであるが、実際には相当額の英ポンドで受領し、その大半は在外正貨としてロンドンにおかれた。
- ^ 世界的観点と研究蓄積の網羅に努めて書かれた研究の手引きであり、おびただしい文献が紹介されている。
- ^ 「2.幣制改革に至るまでの中国の通貨・金融事情」1935年5月に合衆国が銀本位制を部分的に採用したことが、大不況で価格の下落していた銀を昂騰させ、中華民国をデフレに陥れた。民国からは銀が大量に流出し、幣制改革を経て、翌年5月の米華協定により合衆国政府が直接銀を買上げて民国がドル建ての売上げをナショナル・シティー銀行へ預けることになった。詳細は「中華民国期の通貨の歴史#国民党による「法幣」発行」および「銀本位制#中国」を参照
出典
- ^ 岩田規久男編 『昭和恐慌の研究』 東洋経済新報社、 2004年、38-39頁。
- ^ a b Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. pp. 5–40. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ^ Esteves, Rui Pedro; Nogues-Marco, Pilar (2021), Fukao, Kyoji; Broadberry, Stephen, eds., “Monetary Systems and the Global Balance of Payments Adjustment in the Pre-Gold Standard Period, 1700–1870”, The Cambridge Economic History of the Modern World: Volume 1: 1700 to 1870 (Cambridge University Press) 1: pp. 438–467, ISBN 978-1-107-15945-7
- ^ 柏木肇 訳編 『技術の歴史』 第12巻 筑摩書房 1981年 p.345.
- ^ a b Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. p. 5. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ^ Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. pp. 7, 79. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ^ Eichengreen, Barry; Esteves, Rui Pedro (2021), Fukao, Kyoji; Broadberry, Stephen, eds., “International Finance”, The Cambridge Economic History of the Modern World: Volume 2: 1870 to the Present (Cambridge University Press) 2: pp. 501–525, ISBN 978-1-107-15948-8
- ^ Eichengreen, Barry (2019). Globalizing Capital: A History of the International Monetary System (3rd ed.). Princeton University Press. pp. 86–127. doi:10.2307/j.ctvd58rxg. ISBN 978-0-691-19390-8. JSTOR j.ctvd58rxg
- ^ “Gold standard Facts, information, pictures Encyclopedia.com articles about Gold standard”. Encyclopedia.com. 2015年12月5日閲覧。
- ^ William O. Scroggs (11 October 2011). What Is Left of the Gold Standard? 2015年1月28日閲覧。.
- ^ 大蔵省編纂 『明治大正財政史(第13巻)通貨・預金部資金』 大蔵省、1939年
- ^ 高橋洋一『日本経済の真相』
- ^ 大蔵省編纂 『昭和財政史(第9巻)通貨・物価』 東洋経済新報社、1956年
- ^ ニューディール政策と金没収
- ^ a b 久光重平『日本貨幣物語』毎日新聞社、1976年
- ^ 造幣局125年史編集委員会編 『造幣局125年史』 造幣局、1997年
- 1 金本位制とは
- 2 金本位制の概要
- 3 歴史
- 4 ニクソンショック
- 5 関連項目
金本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 07:54 UTC 版)
世界恐慌の金本位制理論によれば、恐慌の原因は主に、第一次世界大戦後の西側諸国が戦前の値段に基づく金本位制に復帰しようとしたことにである。この説によれば、これによって金融政策がデフレ志向になり10年間にわたってヨーロッパの多くの国の経済の健全性を害し続けたという[要出典]。 この戦後政策に先駆けてインフレ政策がとられていた第一次世界大戦中には、多くのヨーロッパ諸国は戦費の激増により金本位制を廃止せざるを得なかった。この結果、新しく作られた金の供給がインフレを中和させる生産性への投資ではなく戦費に使われたため、インフレが起こった。この説は、大量に導入された金の量によってインフレ率が決まり、それゆえインフレへ導くことが、破壊的・消費的であって経済成長を導かない目的のために造られた新貨幣の総量を減少させるというものである。 戦後アメリカやヨーロッパ諸国が金本位制に復帰した際、多くの国は戦前の水準の金-通貨レートをとった。例えばイギリスでは1925年に金本位法が国会を通過し、これによって金本位制に復帰した際、当時外国為替市場で戦前よりもずっと低い価格でポンドが取引されていたにもかかわらずスターリング・ポンドを戦前と等価に設定するという致命的な決定を行った。当時ジョン・メイナード・ケインズらは、政府はそうすることによって釣り合いが取れていないような賃金再設定を強いているのだと主張してこの決定を批判した。ウィンストン・チャーチルが金本位制に復帰させたことに対するケインズの批判はこれを暗にヴェルサイユ条約の結果と比較するものであった。 戦前と等価にしようという傾向が生まれた理由として一つは、デフレは危険ではないのに対してインフレは、特にヴァイマール共和国に見られるインフレは耐え難い危険であるという当時優勢であった意見があった。もう一つの理由として、額面価額で貸し付けている者は自身が貸し付けたのと同価値の金を回復できる期待があったというものがある[citation needed]。フランスに支払わなければならない巨額の賠償金を支払うための外貨を獲得するのに十分な商品を輸出・販売するために、ドイツは信用を犠牲にした成長の時代に入った。世界の金の溜まる場所としてのアメリカ合衆国はドイツがフランスに償還するための基盤として産業化するための資金を貸し付け、フランスはイギリスおよびアメリカに償還した。この流れはドーズ案に明文化された。 非常に高利の借金をして再融資もできない状態にあるか、低利率ではないときに資本財に融資するための貸し付けに依存している場合、農業のような産業分野にとってデフレは辛いものとなりうる。負債の実質的価値が増加しているのに対して物価はデフレに浸食されていく。資産を現金で保持している者や、資産を投資・購買に充てたり資金を貸し付けたりしようとしている者にとってはデフレは有益である。 ピーター・テミン、ベン・バーナンキ、バリー・アイケングリーンといった経済学者によるより近年の研究は、世界恐慌時に緊縮政策がとられていたことに着目している。この考え方によれば、戦間期の金本位制下での緊縮は最初の経済的ショックを拡大し、恐慌を食い止めるあらゆる行動に対して大きな障害となったという。彼らによれば、最初の不安定化させる衝撃はアメリカ合衆国のウォール街大暴落に起因するが、外国に問題を伝播させたのは金本位制であるという。 彼らの出した結論によると、危機の時代の政策決定者たちは金融政策・財政政策を緩和しようとしたが、そのような行動が、契約上の率で金を交換する義務を維持する国家の能力を脅かしたという。外国の資産を金で買おうとする国際的投資家を引き付けるために、金本位制は高利率を維持することを要求する。そのため、金本位制を廃止しない限り、政府は景気の急落にも手をこまねいているほかない。金本位制をとる全ての国の交換比率を修正することで、外国為替市場が利率の平衡を保つ事だけは保証される。恐慌が悪化すると多くの国が金本位制を廃止し始め、より早く廃止した国々はより少なくデフレの影響を受けてより早くデフレから回復する傾向があった。 自由銀行制派経済学者にしてミルトン・フリードマンの弟子のリチャード・ティンバーレイクは自身の立場を『アメリカ合衆国の金融政策にみられる金本位制と実質手形原理』で明確に説明したが、この論文での彼の主張によると、連邦準備制度は実は金本位制化においてかなりの余裕を持っており、そのことがニューヨーク連邦準備銀行総裁ベンジャミン・ストロングによる1923年から1928年の物価安定政策によって証明されたという。しかし1928年後半にストロングが没すると、ニューヨーク連邦準備銀行の支配権を引き継いだ派閥が、全ての金は実際の商品によって代表されなければならないという実質手形原理を唱道した。ドルに30%のデフレを強いて当然合衆国経済に損害を与えたこの政策は恣意的で、避けられるものであって、金本位制はこれなしに存続できたとティンバーレイクが述べている: 金の管理におけるこの移行は決定的であった。ストロングは前任者に従って金本位制という足かせに頓着せずに物価安定政策を実行し、実質手形原理の支持者は自身の理想とする政策を実行する上で同様に束縛を受けずに済んだ。1928年-1929年のシステムポリシーは結果的に物価安定から受動的な実質手形に移行した。「この」金本位制はそれが再出現するのに好都合な時を待つ形式的な見せ掛けでしかない場所で残存した。
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金本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 09:20 UTC 版)
イギリスの自由貿易を金融面で支えたのは、国際的な金本位制だった。イギリスは貨幣法 (1816年)(英語版)(1816年)を制定し、通貨のスターリング・ポンドを中心とした金本位制を成立させた。金本位制によって、国家の通貨発行額はその国が保有する金の量で決まる。金の量(金準備)は輸出入で増減するので、通貨量は金に合わせて自動的に調整されることになった。1840年から1870年にかけての一人あたり貿易額は、イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・スカンジナヴィアで4倍か5倍、オランダとベルギーで3倍、高関税のアメリカも2倍となった。 欧米諸国は、イギリスに続いて金本位制や自由貿易を採用した。イギリスとフランスは2国間貿易協定のコブデン=シュヴァリエ条約(英語版)(1860年)を結び、関税の禁止や最恵国待遇を盛り込んだ。最恵国待遇は全ての条約国に最もよい条件を与えるので、条約国が増えるほど多くの国に低い関税が適用される。イギリスやフランスが他国と条約を結ぶことで、ヨーロッパは自由貿易体制が拡大した。他方で広大な国内市場を持つアメリカ合衆国は、南北戦争に勝った北部の利益を重視する工業化が進み、保護貿易による高関税を維持した。1866年から1877年は貿易自由化のピークであったが、大不況をへて、自由貿易を維持するイギリスと保護貿易を選ぶ国々に分かれた。各国が保護主義化した原因には、金本位制も関係していた。輸入をして金が減少すると国内の通貨も減少するため、イギリス以外の国は保護貿易で輸入を防ぎ、通貨発行量を保とうとした。 1892年から1894年には景気回復期に入り貿易は拡大したが、イギリスをのぞく各国が保護貿易を行なっていた時期と一致する。各国はイギリスへの輸出が急増し、結果的にイギリスの自由貿易が保護貿易国の経済成長を支えた。イギリス国内では保護貿易の国に対して関税を求める声が上がったが、当時は製造業に替わってシティ・オブ・ロンドンの金融業が発展しており、自由貿易を継続した。各国は輸出で1909年から1913年に高い成長率を享受し、イギリスは貿易赤字を銀行業や保険業など金融の黒字、そしてアジアとの黒字によって埋め合わせた。
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金本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
日清戦争の軍事賠償金として得た金額は3億6000万円で、当時の日本のGNPの約2割にあたる。この賠償金を金準備金に設定して、金本位制を軸とした貨幣法が施行された。公的には新貨条例から金本位制が定められていたが、この時点までは事実上の銀本位制で、1円=金0.75グラムとされた。金本位制の本格的な採用によって外債の発行が容易となり、日露戦争の戦費調達のために10億円の外債を発行したほか、日露戦争の勝利で対外的な信用が高まって地方債や社債も海外で発行された。金本位制のもとでは、各国の通貨は金との交換比率が決められ、通貨量は各国が保有する金の保有量に制約される。貿易黒字国はインフレ圧力が高まって輸入の増加と輸出の減少が起き、貿易赤字国はデフレ圧力がかかって輸出の増加と輸入の減少が起きるため、輸出入による自動調整の機能も期待された。
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