金本位への転換とは? わかりやすく解説

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金本位への転換

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:04 UTC 版)

濱口雄幸」の記事における「金本位への転換」の解説

濱口内閣総理大臣引き受けにあたって主眼となっていた課題経済政策であった第一次世界大戦後国内好況が既に終わりを告げ久しく1927年昭和2年)に起きた金融恐慌をはじめ、日本国内長い不況に喘いでいる一方で軍拡動きも活発であった軍部動き抑え同時に日本不況から脱するためには、金解禁不可欠であると濱口考えたのである実際に第一次世界大戦後再建され新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレ原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国不況追い込んでいた)。 一貫して国際協調掲げていた濱口は、蔵相元日本銀総裁井上準之助起用し彼の協力の元、軍部をはじめ内外各方面からの激し反対押し切る形で金解禁断行当時日本経済デフレ真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸開け放つようなものだ」とまで批判された。特に当時日本経済趨勢無視して、旧平価円高水準)において解禁した石橋湛山ジャーナリスト新平価での解禁主張していた)ことで、輸出業の減退招きその後のより深刻なデフレ不況招来することになる。結果としては、直後起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率1929年昭和4年)には0.5%、翌・1930年昭和5年)には1.1%と経済失政であると評されることになる。 濱口自身「我々は、国民諸君とともにこの一時苦痛しのんで」と語るように、国内経済問題一日にして好転するとは考えておらず、むしろ金解禁経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造改革される考えていた。しかし、結果的に大不況その後社会不安生み出した原因ともなり経済失策は、後に禍根残した任期中濱口自身凶弾倒れたため、その後経済政策第2次若槻内閣引き継ぐ。そして1931年昭和6年)の成長率はまたも0.4%と低迷することとなる。この大不況民政党内閣から交代した政友会犬養内閣において蔵相務めた高橋是清リフレーション政策により、長きに渡るデフレ終熄させることでようやく終わりを告げることになる。高橋取った政策は金輸出の再禁止日銀国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対政策であった犬養内閣において、成長率1932年昭和7年)に4.4%、1933年昭和8年)に11.4%、1934年昭和9年)に8.7%と劇的な回復見せ日本世界先駆けて不況からの脱出成功する事になる。 濱口内閣当時緊縮政策と金輸出テーマにした歌謡曲緊縮小唄』(西条八十作詞中山晋平作曲)のレコード日本ビクターより発売された。

※この「金本位への転換」の解説は、「濱口雄幸」の解説の一部です。
「金本位への転換」を含む「濱口雄幸」の記事については、「濱口雄幸」の概要を参照ください。

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