金本位制と為替変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:44 UTC 版)
19世紀半ばから金本位制による交易体制が確立しつつあり、日本も日清戦争の賠償等として得た金を準備金に充てて1897年に貨幣法を施行し、平価を金0.75g=1円(100円=49.875ドル)と定めて本格的金本位制を確立した。以後20年は平価・為替が維持された。 第一次大戦が始まると欧州各国は続々と金本位制を停止し、1917年に米国が金交換の一時停止を発表したのに追随して日本も事実上金交換を停止し、戦後に金本位制へ復帰(金解禁)する機会を窺った。しかし、戦後の大反動の経済混乱の中でその機会を見出せず、関東大震災の後の輸入超過を受けて、それまで概ね平価(100円=49.875ドル)を維持していたものが1924年暮れには40ドルを割り込むまでになった。政府は財界の整理(国際汽船・朝鮮銀行・台湾銀行の整理)を行い、経済状況を改善することで自然に為替が平価に戻るように企図したが、これを先読みした投機筋の取引により1925年暮れには49ドル近辺まで急騰し、以後乱高下した。 戦後発足した国際連盟の常任理事国にもなり、五大国の一つに数えられるようになったとはいえまだ日本の経済は小規模であり、兌換を停止し金の裏付けのない通貨「円」は半ば金融商品として投機の対象とされた。このように為替が不安定で、投機筋の思惑で乱高下することは経済にとって好ましいものではなく、交易業や金融業を中心とする経済界から為替の安定のために金解禁を行うことが求められた。また、諸外国は戦後に続々と金本位制に復帰し、1922年4月から5月にかけて開かれたジェノア会議で戦後の貨幣経済についてなされた議論の中で日本に対しても金本位制への復帰が求められた。 一方で金解禁のためには1920年来の不良債権、そして震災手形を根本的に整理・解消することが前提となり、その処理が大きな課題としてつきつけられた。あるいは金解禁を強行すれば企業の経営体質も問われることとなり、不健全な企業は自然に淘汰され自ずと不良債権は解消するとの見方もあった(清算主義)。 なお、金本位制に復帰するにあたり、大戦後の経済状況に応じたレート(新平価)で復帰した国もあり、例えばフランスは通貨を1/5に切り下げ、ドイツ、イタリアも平価を変更した。日本でも関東大震災後の円下落の頃に一応の為替安定を見て経済状況に応じた新平価(100円=40ドル前後)で復帰すべきとの意見もあった。しかし、1919年にいち早く復帰した米国や、世界の金融の中心であった英国が1925年に復帰した際には、戦前の平価を維持しており、その中にあってようやく列強に名を連ねるに至った日本が円を切り下げるのは国力の低下をあらわにするものであり国家の威信を損ない「国辱」であるという見方から、旧平価(同49.875ドル)での復帰を望む意見が大勢を占めた。また、平価は法律で規定されているところで、特に外交・交易を重視し金解禁に積極的な憲政会が十分な党勢のないままに法改正に臨めば議事の混乱を招く可能性があり変更は容易ではないとみなされていた。結局旧平価での復帰を志向して為替政策上も政策金利の調整や正貨現送の調整で為替を誘導したり、加藤高明内閣の濱口雄幸蔵相が緊縮財政をとるなど経済政策を経て間接的に誘導する政策がとられた。しかし、緊縮財政が採られ、また円高が維持されたことから輸出が振るわず、物価が下落し日本国内の景気は悪化した。
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